白坂山古戦場(石城)周辺図(『都濃郡河内村明治二十年地誌』)
まず白坂山について述べよう。白坂山の地名が亡びたのは、いつ頃であろうか。『地下上申』寛延二年(一七四九)には、徳山領河内村境目書の項で
「西之方より北之方え廻り御本手領末武村との境ハ、右井手か迫山より石城山迄尾続嶺尾切ニ登り、此所迄末武村との境なり」
とし同末武村の隣村境目書元文五年(一七四〇)には
「夫より嶺尾続石城と申山頭上迄、東ハ徳山御領生野屋村との境也、此所河内村境も御座候事、又石城山之嶺尾続水流西南之向ノ浴之田畠山之平共ニ当村之分(以下略)」
として河内村・末武村両村から上申しているが白坂山の名はなく、これが記された元文・寛延の頃には、白坂山の地名は既に亡び石城山と称されていたと推考される。
前掲の『軍忠状』に於ける白坂山を後世の石城山・白城山(しらじょうやま)・白迫山(しらさこやま)に擬されたのは、山田恒造・御薗生翁甫氏である。既に昭和六年その著『防長地名淵鑑』に於いて
「久保村字大河内の西北に迫の字字あり。某地内花岡村の大字末武北村との境界線に城山及び高壺山の連亙せるあり。(中略)付近一帯の山頂白禿山にて、先年久保花岡両村共同にて砂防の為にハゲシバリの樹を植えたることあり。花岡村にては此地方を白迫と稱ふ。久保村長山田恒造氏の考に白坂山は白迫の地にて其轉訛なるべしと云へり。翁甫按るに正平七年二月大内弘世の鷲頭庄に入るや、先づ白坂山を攻め次々に高志垣熊毛郡新屋河内に転戦するの経路及び白迫の地形より観察するに白迫を以って白坂山に擬すること当れりと謂うべし」
と記している。右に於ける高壺(坪)山は、現在の北山(註一)白城山は石城山の通称として、我々はかかる名称を現在混用している。第2図は昭和三十年頃聴取により調査していた地名をのち「下松市市域図」(昭和五十年)に記入作成したものである。
「白坂山周辺図」(下松市市域図・昭和50年製)に聴取調査による地名を加筆(第2図)
中世は上図のような広範囲を白坂山と称していたと思われる。
背後の山が北山・高壺山・白禿山・石城山である。(昭和十三年撮影)
この頃いたる所に白禿があり村・陸軍によるハゲシバリの植栽が何度か行われている。墓参りの祖母の背は三才の筆者である。
第2図の如く、城山・石城・東石城・白城・石城山・城越・城の腰等城に関する地名が集中し、又この一帯が白禿になりやすい土質から白迫・白坂・白禿と称されたのである。南北朝時代は、右のような広範囲を白坂山と総称していたのであろう。かかる地名・文献から此の地が古戦場であったことは明らかである。このように城に関する地名が多数遺存している所は県内でもめずらしいのではなかろうか。
白禿山近景 (昭和十三年撮影) 北山・高根・狐塚一帯は白禿が多く付近を白禿山と呼んでいた。
同上 狐塚古墳跡(下松高校横・昭和二十六年・万徳定男氏撮影)
白坂山(左)~北山・白禿山(右)全景 昭和三十年撮影 既に白禿はない。
又『地下上申』(寛延二年)には、河内村から石城山について、南表平河内村北平生野屋村・八口村北に有とし更に
「但山之峰平地ニて海石余分御座候、寄手之城と申伝候得共、何某之城と申事申伝無之候」
と上申している。海石とは、この付近の山に産出する花崗岩以外の石を称したものであって、築城時代の石がこの頃まで残っていたものと思われる。
いずれにせよ石城・石城山と称され、山頂に「海石余分に御座候」と収録されるからには、山頂に相当な石がその頃存在していたと思われる。現在は海石らしきものは存在しないが、後世田の畦畔に使用された可能性が最も強いと思い字城の腰の田圃七二枚の畦畔石垣を調査したが、いずれもこの付近に産する花崗岩ばかりで海石・川石のような石は存在しなかった。
当時遺存した石は城の石垣が破壊したものか、凶器として用意されていたものかは分からない。
山頂部とこれに連なる尾根は、(第3図)の如く最大幅二八mと、人工によるかなり広範な削平が認められ右の『地下上申』と符合する。北側山麓には馬場と伝える所がある由であるが、その他所謂犬走・堀切・土塁・井戸等の跡は現在認められない。尚同図や写真に於ける敷石及びここに存在する石祠・灯籠等は後世石槌権現にかかるものであって古戦場とは無関係である。
白坂山尾根平坦地略図 昭和34年2月調 (第3図)
白坂山(石城・白城)の山頂図等いずれも図は稚拙なもので、将来遺構保存とあわせて詳細な測量を願いたい。
白坂山山頂石祠周辺 (昭和四十年頃)当時は写真のような小松で覆われていた。
多数の敷石はここに産する花崗岩で「海石余分御座候」(地下上申)とは関係がなく石鉄権現のものである。
この白坂山(標高一五七・八m)と城山(標高一三六・二m)の間は山頂で三三五mときわめて近く、茶臼山(高鹿垣山標高三四八・九m)とは四、五二〇mの距離を有する。この間には森崎山(標高四一m)、下松公園(標高六九m)、旗岡山(標高一四六m)が存在する。
次に高鹿垣山について検討したい。『地下上申』寛延二年東豊井村からの境目書には
「東の方河内村との境ハ、右茶臼山より大迫山・きわたが迫山・大谷山・太華山まで尾続峰尾切りニ下り、(以下略)」
と記しているが、同書河内村からは
「高せがき山 吉原奥豊井境目ニ有 但往古妙見之社此山ニ御鎮座有り、海上通船妙見社不貴船ハ豊井ノ沖通船難ク成り、依之海上ヨリ引退キ今之妙見山え御社替相成、それ故右高せかき山、于今古妙見山と申伝え候」
と記している。前者は河内村と東豊井村の村境について、後者は妙見社の旧跡について、それぞれ茶臼山・高鹿垣二つの名称をつかったものだが、文中「依之海上ヨリ引退キ」とされ、又両村境目書から考証して、両山が同一の山であることは明らかである。高鹿垣の地名は、白坂山に比較するとおそくまで使用されたことが明らかである。
茶臼山(高鹿垣)遠景
茶臼山(高鹿垣)を望む (昭和四十年頃)
妙見社と高鹿垣とは、格別の関係にあった。このことは古く『鷲頭山旧記』天正三年(一五七五)にも
「推古天皇十七年己巳琳聖太子鷲頭山頂星堂御建立上宮中宮也高鹿垣之宮桂木山之宮被移也」
として、妙見社が高鹿垣山上に祀られていたことを記している。勿論これは、古記録や社伝をもとに天正三年(一五七五)に至って別当源嘉が記したものである。又時代は降って鷲頭寺所蔵の『絹本淡彩妙見社参詣図』(文化五年・市文化財指定)には、高鹿垣の文字が記され、位置は現在の茶臼山と符合するようである。江戸末期のものであるが、妙見社にとっては、高鹿垣はかっての旧跡であり、永く伝承されたものであろう。
「鹿垣」とは竹木類の枝をそいで鹿の角の如くし、敵の方に向けて置く障害物のことであって、茶臼山同様古戦場を意味する用語である。
なお茶臼山(高鹿垣)は標高三四八・九mを有し、旗岡山へは北西へ二、六〇〇m、山の南西面は直ちに海面に接している。山頂にはわずかな帯状の平坦地が認められるが帯状の部分は山城(削平)とは無関係で単なる山頂の山道である。(註二)
(註一)『寛永検地帳都濃郡河内村打渡坪付』寛永二年(一六二五)には迫・高根・北山・大かいち(大河内)・八口・神田・出迫等の地名が存在する。これらの名称はいずれも河内村のうち切戸川の北側の一部に集中し、所在地も又明確である。北山の地名は、意外に古いことがわかる。
(註二)『下松地方史研究』第二十九輯 拙稿