「鷲頭氏の本拠は鷲頭山を主峰とする西峰旗岡山の西麓、殿ケ浴であったと思われる。その南に接して土井の地がある。土井は土居の転訛で侍屋敷の名の残ったものであろう」
とされる。土井(土居)を侍屋敷とする説には賛成だが(註一)殿ケ浴を鷲頭氏の居館とすることは賛成しがたい。私ははやくから、近年開発以前の明治二十年地籍図とともに、殿ケ浴を踏査し、又何よりも近くに住んでいて地形をよく承知しているが、浴は北向きの上に狭隘で冬は寒気が厳しく山道は凍結し、ここに流れる通称うりゆう(雨流)川は、名の示す如く大雨の折のみ流れとなる小川である。小川というより溝である。南面は逆に日当たりのよい丘陵地となるが、一枚の耕地幅は同様極めて狭く、何れも自然地形に順応した形の耕地開作の姿をとどめている。居住目的による強力な手を加えた形跡は、いずこにも認められない。鷲頭氏居館を勝栄寺(新南陽富田清水)や陶氏平城(富岡下上)程度と見ることはむりな推測ではなく、せめて一反~二反程度の人工による平坦地がほしいものである。
勝栄寺(新南陽富田) 土塁(整備後)
『地下上申』富田村地下図(部分)享保六年(一七二一)山口県文書館所蔵 勝栄寺は右端の道場
南北朝時代ではあったが、二十年にわたり一国の政治権力を掌握した鷲頭氏の居館跡地に想定すべき平坦地は、残念ながら字殿ケ浴にも又その付近にも見当たらない。これは如何なる文献史料にもまさる有力な根拠と思うのだが。
では殿ケ浴と称せられるのは何故であろうか。
古い時代、河内村方面から東豊井方面へ向う場合、森崎(岩崎)山は切戸川に突出し、度々の増水時には、牛馬の通行は、困難ではなかったか。又距離からしても東豊井へは、山越えの浴(殿ケ浴)を登る方がはるかに短距離である。中世鷲頭氏居館は東豊井のうち豊井小学校付近と推考され、この地への主要道は、山越路であって、この殿様の館へ通じる浴が、殿ケ浴の地名として後世定着したものと私は考えている。
現在に至るも鷲頭氏の居館遺構が発見されていないのは、鷲頭氏滅亡後東豊井村に於ける広大な干潟開作(字堤田・外堤・西浜・長浜・小島開作・磯地・開作・舟入等の地はいずれも中世以降の開作地である)の埋立に屋敷跡の土石が利用されたのではなかろうか。又旧権力者の痕跡を消滅することは、新しい支配者の歓迎するところでもある。当時海岸に近く、やや小高く構えられた居館は、開作地に近く、土・石採取に好都合でもある。
定かではないが、居館跡地として、字黒町・大年・中村・江口付近を想定してはいかがであろうか。(註二)とりわけ豊井小学校周辺の台地は最有力地である。
(註一)拙稿『下松地方史研究』第二十七輯
(註二)鷲頭氏の居館を字江口、現在の豊井小学校付近とする説に『下松地方史研究』第十六輯「豊井村の地名について」宝城興仁氏の論文がある。