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(六) 旗岡山

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 市内に於ける南北朝期の古戦場としては、右の白坂山・高鹿垣の他に史料を欠くが旗岡山が一般に想定されている。『防長地名淵鑑』には、旗岡山について
  「山は久保村と下松町とに跨り、今拓きて段々畑とす。千人塚と云ふあり。恐くは此地観応の古戦場にて、高鹿垣の戦争に関連せる戦死者の墳なるべし、旗岡山の名亦、争戦によりて名づけたる歟。或は畑岡の義なる歟。尚考ふべし。」
とされる。次に『地下上申』寛延二年には河内村境目書に
  「南之方より西之方え廻り豊井村との境は、生薮山より花立山・鎌とき山・戸え登り山・重常山・白あせが峠山迄尾続嶺尾切に下り、夫より中尾筋を下り旗岡之田之あせ切、夫より尾筋を登り千人塚山之頭迄尾境、(以下略)」
と記し同じく『地下上申』豊井村境目書には
  「東の方河内村との境ハ、右茶臼山より大迫山・きわたが迫山・大谷山・大華山迄尾続峰尾切ニ下り、中尾筋へをり田のあせ畠の岸を登り、はたが岡山頭迄中尾筋を登り千人塚え尾続ニ下り、(以下略)」
と記している。つまり河内村からは「旗岡」、豊井村からは「はたが岡山」と上申している。周知の如くこの山は古くから、緩傾斜の畑地であって、開拓はおそらく農耕開始期に近いものであろう。この耕作地の現存石垣は山城に於ける段床石組とは無関係の後世のものであろう。

旗岡山遠景(昭和四十年頃) この頃は山頂まで段々畑であった。


旗岡団地造成以前は下松公園から畑(旗)岡山にかけて、写真のような段々畑であった。 (昭和四十年頃・万徳定男氏提供)

 位置は茶臼山より北西へ二、六〇〇m、白坂山より南へ一、九六〇mの処に在るが、標高は一四五mと低く、要害の地とするに充分ではない。だが高鹿垣を攻めるとすれば、険阻な大谷山方面からの進撃は不可能であるから、旗岡山方面での激戦は充分考えられる。又近くに千人塚の地名や千人塚(第5図・6図参照)が遺存することも戦場と見る極めて有力な根拠である。