「高鹿垣の西端にて、山下久保市街道が通ずる。千人塚があったが、今墾きて畑となっている(以下略)」
と記されたことによるものであろう。この著述は、昭和十一年初版であるから、勿論それ以前の踏査であろう。約二十年余のち右の消滅した千人塚跡地を探したが、証言は得られなかった。だが他に一つ、字千人塚のわずか西方上中尾二五一六番地に接した原野中に千人塚が現在も遺存していることは、一部関係者の間では、よく知られている。『地下上申』河内村(寛延二年)には、小名「八条」についての説明の後
「此山に千人塚と申、干今土塚御座候、往古乱勢之節戦場にて御座候哉、刀などのおれ中古まてハ数多有之候(以下略)」
と収録しており、遺存せる千人塚が、小名八条即ち現在の大字河内字八丈の南東奥に位置する(第5図)ことから、右の『地下上申』の記録と一致するものと考えてよい。ただ「今墾きて畑となっている」とする御薗生氏の記述が誤れるものではなく、おそらく複数の千人塚が存在したと解すべきであろう。

旗岡山・千人塚山周辺 現在は段々畑がすべて山林に変貌している。(中国新聞一九九五)

明治20年字限図(河内村) (第5図) 千人塚所在地・千人塚・千人塚山(旗岡山)旗岡・畑岡に注目されたい
現存する塚(土盛上)には、かしわ餅の葉がよく茂っていたが、祟りがあると云い伝え、昔からこの葉を取ることは、禁じられていたなどの話を聴いたことを覚えている。
次に千人塚の簡単な紹介をしておきたい。(第6図)の如く広いところで幅三m、高さ七〇cm余りの土盛りを道(南側)にそって行い、その内側には、幅一m程の窪地がある。更にその内部が窪地より約一m高の塚である。

字上中尾千人塚実測図 昭和33年2月末調査 (第6図)
塚上には、大小の石と、五輪塔の空風二、火輪二、地輪二、が認められ塚より北東には、空風三、火輪一、残欠二が散在している。古き時代供養塔として、里人により供えられたものであろうか。最近その数を減じたようである。塚は字旗岡・千人塚に近く、右の『地下上申』に関する記述や地下の伝承と符合し、正平七・観応三年の戦乱によるものであろう。

千人塚中央塚部多数の五輪塔が散在していたが、最近は数が滅ったようである。

千人塚塚部 その二

千人塚塚部 その三