この若山城は、古くから近藤清石の『山口県風土誌』(明治三十七年)や御薗生翁甫氏の『防長古城趾の研究』(昭和十一年)により、陶氏の鷲頭攻略のための「本城」とされてきた。ところが昭和五十年に至り、三坂圭治氏は『若山城趾調査報告書』に「若山城趾考」と題する論文を発表し、陶氏を吉敷郡陶村から富田保に移したのは、鷲頭進撃を目的とするものであるが、若山城の築城は、地理的にみて積極的に東に構えず、鷲頭氏とは逆の西に大きく退いていること。又当時の状勢からすれば、平城の南北二城で充分であること。これらの理由から富田保へ移住当初からの築営を疑問としている。
即ち若山城築城の目的は、北方上得地保の吉見氏に備えるためとし、その時期を文明二年(一四七〇)頃と推考される。さすれば鷲頭氏滅亡後百十年余後の築城であり更に石垣等はその後の補強による可能性もある。換言すれば、白坂山城は、小規模ではあるが若山城より一世紀以上も早い築城となる。
龍文寺参道 陶氏菩提寺
龍文寺本堂裏 枯滝石組局部 (昭和四十七年撮影)