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(十) 雑感

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 最近「下松平成の森構想」(構想図参照)が発表され、白坂山山頂が、展望台とされる計画である。『内藤藤時軍忠状』に明らかな如く、鷲頭一族はただ白坂山の天然地形とわずかな防備をたよりに、難攻不落を信じ、大内弘世と重ねて激戦を行った山である。白禿げの土質のため、六百四十年を経て、今日城跡に、別段の防御的遺構は存在しないが、この付近一帯の山は、当時の形勢に大きい変化はなく現在に至るも上部に幅二八mの平坦地を残すほか城郭に関する多くの地名を遺存せしめて貴重である。(第2図・3図)
 鷲頭長弘は後醍醐天皇による親政所謂建武中興の戦乱において周防守護に補せられて以来、長弘・弘直父子二代周防一国の守護として、政治軍事権を二十年にわたり下松鷲頭庄に樹立している。御薗生翁甫氏は、大内時代を細分すれば、建武元年(一三三四)から約二十年間を鷲頭時代と称すべきである(『徳山市史』)とされる。
 長弘が周防守護に任じられたのは、一族の文化興隆に功績があったのではなく周防一国に於ける抜きん出た軍事力・統轄力を尊氏が評価したに他ならない。守護に任ぜられた早い時代であれば、ふがいない大内弘幸を抹殺することは、比較的容易であったとも思われる。あえてこれをなさなかったのは、長弘の甘さもさることながら、当時の世相が骨肉相食む戦国の世の倫理が未だ存在しなかったためである。だが弘幸の長子弘世は、たぐいまれな政治家であり同時に卑劣きわまりない策略家であったと云う。戦国の世ではあるが、私たちには鷲頭長弘の温情に弘世は、鷲頭攻略をもって礼としたようにも取れる。長弘の死去には二説(正平六年・同七年)あるが、おそらく彼の死去か又は指揮不能を確認の上鷲頭攻略を開始したのではないであろうか。一般には、若山城の完成と同時に鷲頭庄攻略を開始したと云われているが、それは誤り(前掲三坂圭治論文)で長弘の死去と同時に戦闘を開始したとも思われる。前掲軍忠状の承判がすべて貞弘(長弘の二子)であるのは、このためであろうか。(註一)
 もし戦国の世の倫理観が鷲頭長弘にはやくから存在しておれば、後顧の憂なきよう宗家を壊滅させ西の京は、下松に樹立されたと考えても唐突ではあるまい。鷲頭長弘はおそらく武力一辺到の武将であったらしく寺院等の文化的遺産は何ら現在に伝承していない。この意味で白坂山の削平地は、下松の豪族鷲頭長弘が下松に遺した唯一の形見なのである。
 (註一)鷲頭長弘の長子は弘員である。彼の子康弘(系図参照)は下松で自害したが、その後裔は鷲頭庄を安堵され三代あとの弘賢は、鷲頭妙見社下宮の造営に奉仕したことが大内政弘の家臣相良正任の日記『正任記』文明十年(一四七八)十月三日の条(本誌十二章に掲載)に明らかである。
(平成四年十二月)

追記
 右に述べた高鹿垣・白坂山は、鷲頭一族の城地として、下松市域の豪族内藤・末武氏とともに、南軍弘世の侵撃に対抗した貴重な史跡である。
 「下松平成の森構想」が発表され(上図)これによると白坂山城の跡は削られて展望台(M)とされるご計画のようだが、六百四十年間も維持されたこの山城や多数の城に関する地名を削除することなく、遊歩道や周囲の樹木伐採程度にとどめ、中世城跡の現状保存に慎重を期されるよう願ってやまない。
(平成五年三月)


下松平成の森構想図(部分) 下松市提供