大内氏の宗家である弘幸・弘世父子は、弘幸の叔父である鷲頭長弘が、武家方の周防守護となるや、弘世は、長弘に対抗して宮方の守護となり、ついに正平七年(一三五二)鷲頭一族を、都濃郡各地に攻めた。その際市域に於いても、白坂山・高鹿垣方面で激突があったことが、「内藤藤時軍忠状」(註一)から明らかである。
下松の豪族鷲頭氏を滅ぼしてのち弘世は、長門の厚東一族を攻め、ここに防長両国を平定することとなる。その後宗家の大内氏は、現在の龍福寺(山口市)付近に広大な館を建て、街は京都を思わせる市街であったと伝えている。
このように繁栄した山口の城下も、降って大内義隆の代に至り、武断派の将である陶晴賢と対立することとなり、ついに天文二十年(一五五一)晴賢は山口を急襲した。ここに西の京と称せられた大内宗家の繁栄は、悲劇のうちにその幕をとじたのである。

大内義隆画像(部分) 龍福寺蔵
(註一)『萩藩閥閲録』九十九之二(内藤藤時軍忠状)