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(二) 毛利氏の西方進出と下松

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 大内義隆が、大津郡深川(現・長門市)の大寧寺で自害したあと、陶晴賢は、大内義長を奉じて防長両国を支配するが、その前途は容易でなかった。その障害の内最大のものは、毛利氏の西方進出である。

大寧寺(長門市)盤石橋 県指定史跡 寛文八年(一六六八)築立 宝暦十四年(一七六四)再建

 ときに、安芸国吉田荘の郡山城を本拠とする毛利は、はじめ大内義隆に属し、又義隆の死後は、しばらく陶晴賢に属したが、ついに弘治元年(一五五五)春、厳島に於いて陶氏を滅ぼしたあと、玖珂郡を支配下に収め、更に兵を進めて、都濃郡へ侵入することとなる。

龍文寺陶氏菩提寺 本堂裏庭遺構 昭和四十七年撮影(その一)


同(その二)

 都濃郡下に於ける攻略の主たる拠点は、須々万沼城(山崎興盛他)であり、次の一つは、富田若山城(陶晴賢の遺臣)であった。
 弘治二年(一五五六)元就は、まず隆景に命じて沼城を攻撃させたが、沼城は、三方を沼で囲まれた要害の上に、山口からの援軍をあわせて、一〇、〇〇〇人に及ぶ兵力を有したと伝え、容易にこれを陥すことが出来なかった。隆景のあと隆元がこの沼城攻撃に加わることとなるが、その途次下松市域内に於いて戦闘が行われている。即ち岩国を発した隆元は、同年四月十八日鷲頭庄に於いて、翌十九日下松に於いて交戦している。更に同日妙見山に於いても大量の死傷者を出したことが、史料から明らかである。

毛利元就画像(部分) 毛利報公会蔵


毛利隆元画像(部分) 常栄寺蔵

 本論は、右の鷲頭・下松の戦いを『萩藩閥閲録』(以下『閥閲録』と略す)から抄録し、次に激戦とされる妙見山の所在地に関し、傍証的資料から若干の私見を述べて小論とするものである。