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(三) 鷲頭・下松の戦い

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 『閥閲録』(七十四)に毛利隆元が、粟屋元通に宛てた感状がある。これによると、弘治二年(一五五六)四月十九日、下松に於いて敵五人を討捕えたことを記している。又同『閥閲録』には、これに続いて毛利元就が、粟屋元通に宛てた感状があり、弘治二年四月十八日鷲頭に於いて、敵一人を討捕えたこと、翌日十九日下松に於いて敵五人を討取ったことが示されている。而して『閥閲録』に収録せる感状は次の通りである。
  三月十三日(周防)中須動之時、其方中間敵二人討捕候、同十五日於(周防)玖珂敵一人討捕候、翌日十九日於(周防)下松敵五人討捕候度〃之儀誠祝着無比類候、神妙之旨能〃可申聞候、彌馳走可爲喜悦候、仍感状如件
     弘治二
       卯(四)月廿八日     隆元 御判
        粟屋縫殿(元通)允殿
  三月十三日中須動之時、其方中間敵二人討捕候、同十五日於玖珂敵一人討捕候、今月十八日於鷲頭敵一人討捕候翌日十九日於下松敵五人討取候、度〃儀誠祝着無比類候神妙之旨能〃可被申聞候、彌馳走可爲喜悦候、仍感状如件
     弘治貳
       卯(四)月廿八日     元就 御判
        粟屋縫殿(元通)允殿
 前述の如く、玖珂郡を制覇した元就は、兵を進めて都濃郡へ進入したが、最大の拠点は、前述の如く沼城であった。この地は、岩国に通じる山代と玖珂方面への両道がまじわる重要地帯である。元就は、隆景に命じて、弘治二年(一五五六)四月これを攻めたが、陶氏の重臣山崎伊豆守興盛は、これを援ける伊香賀左衛門大夫・江良賢宣・勝屋興久・狩野治部少輔ほか一万の総勢により城は堅固にして要害は、容易に陥ちなかった。ここに隆元が元就の命を受けて、参戦することとなり、その途中右の下松市域内での攻防に至ったこと前述の通りである。
 前掲の『閥閲録』には、下松・鷲頭と記されるのみで、市域の何処であったかは、不明であるが、『防長地名淵鑑』(御薗生翁甫・昭和六年十一月)には
 「[古文書]鷲頭とあるは、下松以外の鷲頭庄なるが、恐らくは吉原河内大河内の辺なるべし」
としている。判然としないが、参考までに記しておきたい。いずれにせよ鷲頭とは下松以外の庄地であり、下松についてもここでそれ以上を明確にすることは不可能である。問題は次の妙見山である。