『萩藩閥閲録』[百七十大尾]に収録される妙見山攻略に関する史料は、次の通りである。
急度申候、(周防)妙見山之儀被切崩、敵五百余人被討果之由誠大慶此事候、旁御粉骨之段無比類難申盡候、則至谷山可被取懸候哉、御評儀之趣追〃可蒙仰候、猶只今以使者申候条不能詳候、恐〃謹言
(弘治二) 備中守
卯(四)月廿日 隆元御判
天野藤次郎(元定)殿
熊谷越中守(隆経)殿御陣所
下松・鷲頭攻略に於ける前項の感状が、「翌日十九日於下松敵五人討捕候」(以下略)とし又「今月十八日於鷲頭敵一人討捕候、翌日十九日於下松敵五人討取候」(以下略)とするのに対し、妙見山の戦いは「妙見山之儀被切崩、敵五百余人被討果之由」(以下略)としている「敵五百余人被討果」はさておき、妙見山の戦いが熾烈であり、又「妙見山之儀被切崩」として、妙見山に布陣即ち城郭の存在をも思わせるものがある。