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(五) 妙見山要害の所在地

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 前掲の史料から、土着の大内(陶)一門が妙見山を要害とし、ここに於いて激戦のあったことは確実であるが、その戦闘地については、今まで妙見社つまり現在の降松神社中宮付近とされてきた。これは次の如き考えによるものである。即ち大内一族が、南・北に分かれての戦い(大内弘世と鷲頭長弘・正平七年)では、一門の守護神を祀る聖地即ち妙見山(社)での戦闘は躊躇されるも、今回は毛利の西方侵襲によるものである。この場合外敵を一族の聖地・菩提寺で迎え撃つことは、(しばしば終焉の地となることも多いが)けしてめずらしいことではなかった。これらの理由が底流となって『閥閲録』に記載される妙見山陣営の地は、漠然と妙見社(現・降松神社中宮)付近とされていたようである。
 この妙見社布陣説を更に決定的にしたのが『山口県文化史年表』(昭和三十一年四月刊・山口県)である。即ち同書「重要事項」の項(一一三頁)に
 「弘治二年四月十八日毛利氏の兵、鷲頭庄を討ち、翌十九日降松妙見社の営を取る」と明確に記され、この出典が『新裁軍記』であることもしるされている。
 では出典とされる『新裁軍記』は、いかなる経緯にかかる編輯であろうか。
 この軍記は『毛利家文書』『閥閲録』『寺社証文』等に所収の古文書を対置抄録した編年体の官撰歴史書であって、永正十四年(一五一七)十月から、永禄六年(一五六三)末に至る間を編輯している。編者は、御内用掛の永田政純を主任として、元文三年(一七三八)十一月に着手され、寛保五年(一七四一)五月元就時代分の大部分が、完成を見たものという。(註一)
 このように『新裁軍記』が完璧な古文書を対置した歴史書だけに、妙見社布陣説は疑われることなく今日に至ったのである。妙見山の戦いについて、宝城興仁氏は『下松地方史研究』第十九輯に於いて次の如く記されている。
   弘治二年(一五五六)四月十八日、毛利氏は「妙見社の営をとり、大内氏亡び下松は毛利氏の下に平定された」と史書にある。これによれば、戦火は妙見社にも及んでいる。「妙見社の営」とあるからには、妙見社にも幾分かの防備もほどこされ、僧兵に類することも行われていたのではあるまいか。このたびの戦いは、毛利氏対大内氏の戦いであった。以前の白坂山の戦いは、大内氏内部の争いであったので、鷲頭氏・大内氏ともに琳聖太子・妙見社を尊崇した。(以下略)
 次に『下松市史』(平成元年)の一部を抜書しよう。隆景のあとを受けて
   (前略)「隆元は岩国を発して沼城に向かった。その途次の四月十八・十九日に市域の鷲頭や下松妙見山で戦闘が行われ、大量の犠牲者を出している。(中略)ことに十九日の下松妙見山の合戦では、天野元定・熊谷隆経らが五〇〇余人を打ち果してその功を賞されている。」(以下略)
と記されており、これは『閥閲録』に於ける「妙見山」を「下松妙見山」としたものである。「下松」とは「下松市域」の意であろうが、その場所は明確にされていない。

妙見山遠望 山頂妙見社に於ける布陣と五〇〇余人の死者はいずれも誤りである。

  (註一)『新裁軍記』序文(杉岡久人)