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(六) 出典と『新裁軍記』

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 前述の、「妙見社の営を取る」とする事項は、『山口県文化史年表』に掲載されるものの出典とされる『新裁軍記』にも又原文の『萩藩閥閲録』にも、意外なことに見当らない。「妙見社」は「妙見山」の誤りではないであろうか。
 仮に『文化史年表』通り「弘治二年四月十八日毛利氏の兵、鷲頭庄を討ち、翌十九日降松妙見社の営を取る」とする史料が他のいずれかの文献にでも存在するとすれば、妙見社に布陣した陣を奪い取ったのではなく
 一、毛利が妙見社への奉祀・経営権を掌握した。
 二、鷲頭庄を征服後、直ちに祭祀をとり行った。
等の解釈も可能であろうが、このことについては後の項で検討しよう。