(第1図) 下松市市域図(4160分の1) 昭和50年に加筆(来巻)
来巻千人塚(大蔵・妙見道ヨコ)
来巻千人塚(妙見道ヨコ)
塚のうち一つは大字来巻字大蔵、標高一二二mの処で、妙見道(註一)横の台地上(高さ四m)に築かれている。(第1図・第3図・第4図参照)
(第3図) 来巻千人塚断面図 平成4年2月作成
(第4図) 来巻千人塚(その1)平面図 平成4年2月作図
塚部はこの台地より、更に三〇cm程盛土され、形はほぼ円形をなし、その周囲を大小雑多な石(約八割は川石)で囲む他塚上にも置石が認められる。塚周囲には、自生のハゼ・モッコク等の雑木が繁茂している。
東西径四・二mの塚のほぼ中央に、地上八五cm、最大幅八六cm、奥行一五cmの石を立てているが、塚の北側に宝篋印塔か又は五輪塔の基礎と思われるものが存在するので、当初この塔が供養塔として据えられていたのであろう。(註二・第3図基礎石姿図・写真参照)
来巻千人塚(その一・妙見道ヨコ) 塚中央立名(地上八五cm)は石塔破損後であろう。
同来巻千人塚 石塔基礎石 当初は中央に置かれたのであろう。軟質の石に反花が美しく刻られている。
塚の西側は深さ三・三mに掘られ臼切りとなっているが勿論後世の作道である。これより更に西ヘ一一mの処に、地上一・六m最大幅九〇cmの板状の立石があり(但し平成五年東へ移動)一部に千人塚とも伝えられているが、平坦地に一石を立てただけのもので、塚とは認めにくいとの説もある。ただこの石質は、付近に存在せず他所から搬入されたことは、明らかである(来巻郷土史同好会・宮田芳人氏より聴取り)が刻銘不在のため目的が判然としない。
更にこの地よりほぼ南方に二五〇m、標高一四六mの尾根上に南北径二・二mの千人塚が在る。かなり小さく周囲に簡単に石が置かれている程度である。塚中央の土盛は、高さ約二〇cmで落葉のためよく分らないが立石、供養塔等は見当らない。(第1図・第5図参照)
来巻千人塚(その二) 径二m程の小さいものだが、千人塚とも伝えられている。
(第5図) 来巻千人塚(その2) 平成6年1月作図
(註一)この妙見道は、熊毛より来巻村、河内村成川の浴を経て妙見社に至る山道で途中
妙見社道 宮田傳左ヱ門
(地上四八cm・花崗岩)
等の道標が現在も数ケ所に残されている。妙見道は通常の参道の他に、かつては東豊井村松ケ坪より吉原谷を経て入るもの、生野屋村より宮ケ浴への山越道、三井村妙見所の浴より中宮へ入る道、山田村より成川経由の妙見道等が存在した。ただ中世以前の成立か、中世に入ってからかは不明であるが大内氏鷲頭氏滅亡後も、旺盛な妙見信仰が存続したことを知る貴重な資料である。尚妙見道については、道の記録保存のため別に稿を起こすつもりである。
(註二)塔・基礎石
平成四年二月千人塚を実測中、土に埋まった石塔の基礎の一部を見付けたもので、宝篋印塔か五輪塔のものであろう。塚土中に他の部分が遺存する可能性が強く材は軟質で蓮弁ともに当時の作造を物語り、又後世の搬入とは考えにくく、千人塚の資料として貴重である。かりに宝篋印塔であれば、地上総高一・五m近くあったと思われる。