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(八) 千人塚と古戦場

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 前述の如く『閥閲録』に於ける妙見山攻略の地は、早くから妙見社(現・降松神社中宮)付近に看做されて来たが山に布陣するのであれば下松には、白坂山に南北朝期の立派な山城があるのでこれを利用する方が得策ではないであろうか。しかし前述の如く一族の聖地妙見社を最後の要害として敵を迎え撃つことは、兵に悲壮感を与え、又上宮・中宮・社坊等の建物水源等はそのまま戦いに利用することも又神々のご加護も期待される。
 然るに毛利進攻からわずか十九年後の天正三年(一五七五)妙見山別当源嘉によって記され、文化四年(一八〇七)恵實によって追筆の『鷲頭山旧記』が、当山妙見社に於ける激突についていささかも触れないのは、いかにも不自然である。又戦いに関する具体的遣構や伝承も何一つ存在しない。
 加えて右の来巻千人塚と妙見社中宮(標高二四一m)とは、直線距離でもほぼ二、五〇〇mを有する(第2図を参照されたい)。実際の道程は、これをはるかに上廻るであろうが、戦闘後遺体をこのような遠距離に運ぶであろうか。中世古戦場とされる下松市域内の字旗岡と字千人塚、城山・白坂山と字高塚の千人塚等いずれも隣接するか、又はきわめて近距離にあることに注目すべきであろう。千人塚たる具体的遺構が現存する以上、戦いは千人塚付近を想定すべきではないか。勿論妙見社が聖地であるため、遺体を神域に埋葬することを好まなかったとも考えられるが、さりとてこれ程離す必要はあるまい。又来巻の千人塚を南北朝期の戦いに比定することも可能ではあるが遺存する史料から場所を推考すれば毛利軍侵略時の千人塚の可能性が極めて高い。

『下松市管内図』平成5年(5万分の1)(第2図)

 『閥閲録』[百七十大尾]に「妙見山之儀被切崩」と記される以上戦闘は、妙見山でなければならぬが、妙見山は、現在の降松神社中宮周辺だけでなく来巻村にまたがる尾根続きの山を含めた広い範囲を妙見山と称していたのではないであろうか。
 あるいは次の如き史料も検討に価する。来巻村について『地下上申』(寛保元年・一七四一)には村内に妙見山の存在を認め
  一烏帽子ケ岳
     但高キ山ニて烏帽子ニにたる故か烏帽子ケ岳と申候、尤先年河内村之明見社(ママ)くわんせう仕候得共、何比ニくわんせう仕候哉由緒無御座候、尤少之石堂元禄十六年ニ立申候
  一妙見壱ケ所   妙見山ニあり
と記している。前者は嶽妙見社と称し、(神仏分離後は、嶽神社とも称している)山頂の石祠には、
     元禄十六癸未八月建立
     庄屋木村藤左エ門信成
     畔頭宮田傳左エ門
       高畑忠蔵
の刻銘があって『地下上申』の収録に符合する。妙見社神主原田家の系譜には、来巻嶽山へ妙見を勧請したのは、天文二十三年(一五五四・陶晴賢自刃の前年)の新築とされるが、創建にかかる明確な史料は遺存しない。一方後者の「妙見壱ケ所 妙見山ニあり」も同様であって、寛保元年(一七四一)の頃来巻村内に妙見山(社)が存在したことは確実であるが、来巻への妙見勧請は毛利攻略後の可能性が強く、勧請後妙見山と称したとも思われる。

『地下上申』来巻村地下図 (一七四一)山口県文書館所蔵


嶽妙見社参道石鳥居(標高三三五・二m)安永四年(一七七五)


嶽妙見参道石段


嶽山山頂(手前) 妙見社一宇(標高三九一・二m)


来巻妙見社 この地も通称妙見山である(『地下上申』)

 来巻に於ける「妙見山」の存在は、右の如く確証を欠く憾みもあり、布陣は妙見山(妙見社中営)と尾根続きの来巻千人塚付近を中心に検討すべきであろう。そして「妙見社の営を取る」とする文献が、いずれかに仮に存在するとすれば、既に述べたように鷲頭庄制圧による妙見社支配・奉仕、つまり社の経営を毛利が掌握したとも解釈は可能である。
 他に一つの解釈ができる。毛利元就は、厳島の戦いに於いて勝利後、血でけがれた厳島神社の神域を清め、神前に舞楽を奉納して戦勝を感謝し、戦死者の霊を弔っている。かかる例から「妙見社の営」をいとなみ即ち祭祀とすることも充分想定されるところであって、弘治二年四月十八日・十九日に下松・鷲頭で激戦があったことは、『閥閲録』に明らかであるから、十九日降松妙見社で祭祀を行っても格別不思議ではない。
 『下松市史』(下松市教育委員会)後編の年表は、
  一五五六年(弘治二)四・一八 毛利軍鷲頭庄を攻め四月十九日下松妙見宮で祭祀を行う。
と記してこの立場を採っている。ただ「妙見社の営を取る」とする出典が不明であることが最大の論難である。