(一) まず「妙見社布陣説」について、前述のように戦いからわずか十九年後に記された『鷲頭山旧記』や毛利家の官撰史書である永田政純の『新裁軍記』に妙見社での戦いの記載が見当たらない。『閥閲録』に収録される感状も妙見山とするのみで妙見社とは記していない。
(二) 妙見社周辺で戦いがあったとされるが、戦いに関する伝承や地名・遺構等が全く存在しない。又、後世の『地下上申』『寺社由来』等もこれに触れていない。
(三) 妙見社は千人塚の存在する来巻(大蔵)からは遠距離でこのような遠くに遺体を運んだとはとうてい考えられない。(第2図参照)
(四) 毛利の中国侵略は早急であって、晴賢の死から下松侵入までわずか半年たらずである。陶の残党が結集したとても広い妙見山山頂(妙見社)に築城布陣する時間や兵力が下松に存在したとは考えられない。仮に山城を構えるのであれば前述のように白坂山・高鹿垣(茶臼山)等の中世山城跡を補強して利用するはずである。
以上の如く鷲頭・下松の兵力は残党によって沼城への毛利進軍をこばむ程度であって、大内弘世の鷲頭攻略のように白坂山・高鹿垣の山頂に城郭を構えての長期互角の戦いとは考えられない。右に掲載した来巻の妙見社(山)が毛利侵入当時不在であったとしても、一方千人塚の在る来巻大蔵は、妙見山の尾根続きで妙見山と称することに矛盾はなく、熊毛方面への途次にあたり、この地での布陣激突は充分想定されるところである。これらのことから戦闘地は今まで定説とされてきた妙見社(現降松神社中宮)説を否定し、これと尾根続きの来巻千人塚付近に絞って検討すべきである。
『山口県文化史年表』(一一三頁)に記された「妙見社」は「妙見山」の単純な誤りではないであろうか(註一)。とすれば先に記した『閥閲録』[百七十大尾]所収「妙見山之儀被切崩」からは、「妙見社の営を取る」とすることは成立せず『下松市史』(一〇六七頁)の年表に記された「下松妙見宮で祭祀を行う」とする文献は不在であり、又かかる解釈も成立しない。
又熾烈な戦いがあったことは事実であるが、「敵五百余人被討果」(『閥閲録』[百七十大尾])とする史料も前掲『下松市史』では天野元定・熊谷隆経らが五〇〇余人を打ち果してその功を賞されているとして、史料をそのまま紹介するにとどめているが、実は極端な誇張であって史料そのものに再検討の余地があると考えている。
(註一)又同『山口県文化史年表』応仁元年(一四六七)の項九四頁及び『下松市史』年表一〇六五頁には「大内政弘士庶に対し、鷲頭庄妙見社での狩猟を禁ず」旨記されているが、応仁元年の『大内家壁書』(十六条)は妙見社ではなく、妙見山であって広く一帯の狩を禁じたものと解すべきである。妙見社で狩猟をする者は、はじめからいない。
(平成五年十二月)