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(一) はじめに

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 毛利就隆の居館所在地については、『旧記抜書』文化十三年(一八一六)や『地下上申』寛保元年(一七四一)同・村絵図(豊井村地下図参照)が、西豊井村法蓮寺として、古くからの伝承と一致するのに対し、『徳山藩史』河合裕・明治十四年は河内村と明記し、又幕命によって作成された『正保国絵図』正保元年(一六四四)も同様河内村を示しているように見える。(『正保国絵図』・概念図参照)特に後者の国絵図は、就隆の居館が下松に存在した時代のもので、その意味では信憑性の高いものである。

森崎山から居館跡方面を遠望

 このため例えば、『徳山藩御家頼分限帳』解説・昭和四十九年石川卓美は河内村と記し、又最近著された『藩史大事典』第六巻・雄山閣出版(平成二年)でも邸館新設を下松河内村お屋敷と記し、陣屋所在地を西豊井法蓮寺とする等の混乱がみられる。『下松市史』平成元年に於いても、本文は豊井村法蓮寺を妥当とするのに対し、年表では河内村説を掲載して、この間の複雑な事情を物語っている。
 勿論これらは、いずれも異なる史料の採用に起因するもので誤謬とは認めがたいが、居館が創設されたのは、いずれか一ケ所である。
 まず下松藩に関する年表と、毛利就隆に関する系図を掲載しておきたい。
下松藩年表
元和三年四月一六一七秀就三万石余を弟就隆に分知
元和四年十一月一六一八就隆はじめて下松に赴く
元和七年十二月一六二一替地内定
元和八年二月一六二二替地打渡
寛永元年暮一六二四就隆生母のため周慶寺を建立(但し建立年代に異説あり)
寛永二年四月一六二五輝元 萩で死去
寛永八年八月一六三一下松居館完成
寛永十一年三月一六三四下松藩幕府より正式認可
寛永十二年十月一六三五城主格を申請(但し認可は天保七年)
寛永十五年六月一六三八就隆下松居館に入る
寛永十五年十二月一六三八秀元下松居館を訪れる
寛永十七年 月一六四〇就隆側室のため永心寺建立(現在の松心寺)
正保二年六月一六四五野上村へ移住を幕府へ申請
正保四年 月一六四七就隆乳母のため清安寺建立
慶安元年六月一六四八野上へ移転許可
慶安元年十月一六四八野上の居館建設着手
慶安二年十月一六四九野上邸落成
慶安三年六月一六五〇就隆帰国後直ちに新邸に入る
慶安三年九月一六五〇野上を徳山と改名


毛利氏系図 『徳山市』上 昭和四十六年より引用


毛利就隆 徳山市美術博物館『徳山の歴史』より引用


毛利就隆墓所(大成寺)


毛利就隆大成寺墓所