森崎山から居館跡方面を遠望
このため例えば、『徳山藩御家頼分限帳』解説・昭和四十九年石川卓美は河内村と記し、又最近著された『藩史大事典』第六巻・雄山閣出版(平成二年)でも邸館新設を下松河内村お屋敷と記し、陣屋所在地を西豊井法蓮寺とする等の混乱がみられる。『下松市史』平成元年に於いても、本文は豊井村法蓮寺を妥当とするのに対し、年表では河内村説を掲載して、この間の複雑な事情を物語っている。
勿論これらは、いずれも異なる史料の採用に起因するもので誤謬とは認めがたいが、居館が創設されたのは、いずれか一ケ所である。
まず下松藩に関する年表と、毛利就隆に関する系図を掲載しておきたい。
下松藩年表 |
元和三年四月 | 一六一七 | 秀就三万石余を弟就隆に分知 |
元和四年十一月 | 一六一八 | 就隆はじめて下松に赴く |
元和七年十二月 | 一六二一 | 替地内定 |
元和八年二月 | 一六二二 | 替地打渡 |
寛永元年暮 | 一六二四 | 就隆生母のため周慶寺を建立(但し建立年代に異説あり) |
寛永二年四月 | 一六二五 | 輝元 萩で死去 |
寛永八年八月 | 一六三一 | 下松居館完成 |
寛永十一年三月 | 一六三四 | 下松藩幕府より正式認可 |
寛永十二年十月 | 一六三五 | 城主格を申請(但し認可は天保七年) |
寛永十五年六月 | 一六三八 | 就隆下松居館に入る |
寛永十五年十二月 | 一六三八 | 秀元下松居館を訪れる |
寛永十七年 月 | 一六四〇 | 就隆側室のため永心寺建立(現在の松心寺) |
正保二年六月 | 一六四五 | 野上村へ移住を幕府へ申請 |
正保四年 月 | 一六四七 | 就隆乳母のため清安寺建立 |
慶安元年六月 | 一六四八 | 野上へ移転許可 |
慶安元年十月 | 一六四八 | 野上の居館建設着手 |
慶安二年十月 | 一六四九 | 野上邸落成 |
慶安三年六月 | 一六五〇 | 就隆帰国後直ちに新邸に入る |
慶安三年九月 | 一六五〇 | 野上を徳山と改名 |
毛利氏系図 『徳山市』上 昭和四十六年より引用
毛利就隆 徳山市美術博物館『徳山の歴史』より引用
毛利就隆墓所(大成寺)
毛利就隆大成寺墓所