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(二) 分知と下松藩

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 毛利輝元は、慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の戦いに於いて八ケ国一一二万石から防長二ヶ国三七万石に削封され、容易ならざる事情にあったが、就隆に対しては、かねがね数万石の土地を分与し、秀元に次ぐ末家の第二席とし、更に諸候の地位を得ることを内心期待していた。
 輝元は、かかる内意をもって、秀就や重臣に相談ののち、結果を就隆に伝えている。明けて元和三年(一六一七)輝元は、秀就と合意を見たので、同年四月二十八日付(『打渡坪付帳奥書』栗屋豊後守宛)をもって、下松を中心に三万一四七三石余を就隆に分知している。これは、内証分知即ち下松藩への内配りであって、熊毛郡島田村を除くほかは、すべて都濃郡内であった。
 輝元は、桂美作・神村豊後の二人を選んで付家老とし、支藩創業の重任とした。これは、就隆の側役栗屋肥前の内申によるものである。
 又元和四年(一六一八)十一月三日には、就隆がはじめて領地下松に赴いている。このことについて、『徳山略記』は
 一元和四年十一月三日下松御入府、法蓮寺岡山御殿出来迄町人伊賀崎隠岐宅被成御座
と記している。「伊賀崎氏は、磯部氏と比肩し、磯部氏とも婚を結び勢力があった」(『下松地方史研究』第九輯・宝城興仁)ため下松領地視察の折その邸宅を利用したものであろう。(註一)
 分知から四年後の元和七年(一六二一)十二月二日と翌年にかけて、一部替地が行われ串浜・久米・須々万・中須・莇地(あぞうち)・須々万の内みたけ、兼田・切山村・末武村・下谷の九ケ村を本藩に返還し、矢地・富田下上・大道理・福川・大向・四熊・及び佐波郡富海・阿武郡奈古・大井の九ケ村を替地として受け取っている。(『毛利家文書』)替地後の就隆の領地構成を見るに奈古村と大井村は他村に比較して、はるかに隔つ飛地であることが注目されるが、これは当初在国中萩に居住するため、あえてこの二ケ村を求めたものと推測される。下松陣屋の創建が寛永八年(一六三一)まで降ることと直接関係はないにしても、知行地(都濃郡)に館を構える気持ちが、当初はなかったことが明らかである。ただ結果的には寛永八年に下松に居館が完成し、その後も萩の飛地が居住地として機能することはなく、むしろ後世重荷となったことも事実のようである。
 就隆は十八年ぶりに帰国し、下松の館に入っている。居館が完成して七年後の寛永十五年(一六三八)六月のことである。(『徳山藩略記』)ついで萩におもむき、約半月後の七月十三日には、再び下松の新居に帰り八月下旬には、長府の秀元を訪れている。同年十二月秀元も参勤の途中下松へ寄り就隆夫妻とともに、数日を居館で過ごしていたことが明らかである。

居館跡を裏山より撮影


毛利就隆居館跡碑

 (註一)
   永心寺・周慶寺・清安寺は毛利就隆が、下松を中心に分知を受け、又は法蓮寺に在居した由緒によるものである。このうち永心寺は、就隆の側室(永心院殿月窓永心大姉・寛永十六年八月二十一日卒)のため翌十七年(一六四〇)に創建したものであるが、大成寺建立により徳山に引いている。
   その後元禄八年(一六九五)正月二十六日、その旧蹟に建咲院四世白翁傳太を迎えて、松心寺を建立している。この折の施主が、豪商伊賀崎幾右衛門である。(『明治十三年・寺院台帳』都濃郡役場)伊賀崎氏についての史料は極めて少ないが、下松入府の際伊賀崎家へ御座とする資料とあわせて興味ある一件である。