江戸幕府は、各国の地図を政府の官庫へ収納するため、幕府創設以来慶長・寛永・正保・元禄・天保の五回にわたって、諸大名に国絵図の提出を命じている。残念なことに現在この幕府史料を引き継ぐ国立公文書館内閣文庫には、『周防国正保国絵図』は存在しない。だが幸にして萩藩に於いては、絵図提出に際し、寛永度をのぞくすべての控図が現存している。この内第三回目の正保度の調達を命じられたのは、正保元年(一六四四)十二月十六日のことである。(『福間帳』)又正保期に限って「城絵図」と「道帳」の提出が要請されたが、残念乍ら遺存しない。
慶長周防国絵図(一六〇三~・部分)宇部市立図書館附設郷土資料館所蔵 中央が下松・河川に注意
正保周防国絵図(1644~・部分) 山口県文書館蔵 絵図中央が下松
元禄周防国絵図(1697~・部分) 山口県文書館蔵 絵図中央が下松
さてこの正保度の国絵図は、様式の統一化を意図して、幕府が詳細な基準を示達したため、周防国に於いても、道筋は六寸一里(二一、六〇〇分の一)とし、一里山は黒丸対置をもって示し、各村には石高を記し、主要河川の巾・深さの他馬継を丸輪形で図示している。ただ右の縮尺は、道のりを目的とするものであって、国絵図では、六寸一里を原則として作成しているが、これは平坦地であって、曲りくねった山坂では、逆に一里を極端に(例えば三寸~四寸に)縮めて表現する必要があった。
右の如く、幕藩体制下に於ける郡別の色別け、とりわけ各村の名称と石高(但し斗・升・合を省く石止め)等を内容の基本的要素としたため、横三m縦五mに及ぶ大型図であり乍ら、反面下松市域に於いても河川は、現在の切戸川と末武川の二河川を描くのみで他の河川は、すべて省略する結果となっている。
さて『下松市史』(平成元年・二六〇頁)は、『正保国絵図』に於ける下松付近の概念図を示し、次の如く述べている。即ち、
「毛利(就隆)日向守居所」としてある場所は、「河内川」(現切戸川と考えられる)と「切山川」(現生野屋川―現平田川・あるいは玉鶴川)に挟まれたかなり広い場所を指し示している。あるいは陣屋だけでなく、家臣団の屋敷を含めての一画を図示しているのかもしれない。河川の下流域は後世とは異なっている。」
概念図(『正保国絵図』) (右の河川を次頁の下松市管内図・平成五年と比較検討されたい)
下松市管内図(平成5年)に加筆
右の『下松市史』の説明によると、『正保国絵図』(概念図)に記された「河内川広十二間深八寸」を現在の「切戸川」とし「切山川広十三間深五寸」を山田・生野屋から流下する現在の平田川または玉鶴川と解されているが、これは誤りである。玉鶴川は悪水・潮入川で、山田・切山方面までは至らない。又、窪市・切山の水は今も昔も平田川へは注がない。窪市や黒丸対置で示された一里塚の東を流下するのは現在の切戸川である。国絵図に示された右の「河内川」と「切山川」はいずれも現在の「切戸川」であって、国絵図は切戸川の本流と支流を描いたものである。国絵図(既念図)では、支流(現在の吉原川)を「河内川」、本流の上流を「切山川」とそれぞれ在地名で記したものである。事実「切山川」は久保市で現在の切戸川に合流し、切戸川には降って小野川・吉原川の二支流があるが、いずれにしても、近世に至って「切山川」が生野屋・平田方面に流下することは絶対にありえない。
又『下松市史』には「下流域は後世とは異なっている」とされるが、これより先の『慶長国絵図』も、ややのちの『元禄国絵図』も『地下上申』の村絵図も明治二十年の『分間図』も、更に現在も切戸川の流路は変化してはいない。正保年中とても「切戸川」と「平田川」が下流で合流することはなく、国絵図は現切戸川とその支流の現吉原川を描いたものである。即ちこの『正保国絵図』は市域内では、大きい二つの河川即ち西端の現末武川と中央の切戸川の二河川のみ描いていて、小河川の玉鶴川・平田川・竹屋川・寺迫川・大谷川は描かれていないのである。
私が推測するように『正保国絵図』(概念図)に示された「河内川」と「切山川」が現在の切戸川の本・支流であるとすれば、『下松市史』の著者からは、毛利日向守の居所は、現在の吉原(降松神社付近)となって、他の史料と大きく相違することが指摘されよう。
では幕命による地図作成に於いて、かかる誤りが何故生じたのであろうか。正保国絵図は天下を震撼せしめた島原の乱から六年目のことであって、軍事的観点が特に重視されている。かかる幕命(意図)にしたがい『正保国絵図』は前回幕府に提出の慶長・寛永期の控図を基本として、これに就隆の陣屋を地図師が追筆作成したに相違ない。地図が稚拙なためこの際陣屋の位置を誤って記入したと考えるのが妥当であろう。
『地下上申』(一七四一)時代も現在も法蓮寺(居館跡)裏山を広く「御屋敷山」と称しているが、かかる名称は当時河内村に接する裏山をも含めて居所(聖域)とし、これが地名として定着現在に踏襲されたものと推測される。このようにして日向守の居所を広く図示したことは頷けるが、位置は切戸川の西側に記載すべきであった。つまり『正保国絵図』作成者画師助左衛門(『公儀所日乗』)の大きい又単純なミスなのである。
『下松市史』に述べられたように現「切戸川」と仮に「平田川」に挟まれた広範な場所だとすれば、就隆が末武村を替地のため本藩に返還したのは、元和八年(一六二二)であるから、その約十年後就隆は、返還したはずの本藩領内に家臣屋敷の一部を創設したことになる。事実だとすれば万役山事件どころではあるまい。誤解の原因の第一は画師助左衛門の記載にあるが、右のように『正保国絵図』を誤って解釈することは、居館所在地を検討する上で問題を一層複雑にすることになる。再考を願いたいものである。