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(四) 下松陣屋の所在地と現況

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 下松に就隆の居館が建設されたのは、分知から十四年後の寛永八年(一六三一)(『徳山藩史稿』)のことであるが、居館に関しては、後世の史料も含めて次に掲載する三つの史料がある。
 まず『防長地下上申』(一七四一)には、西豊井村の項に
  一古御屋敷山  法蓮寺に有り
  但先年徳山御先祖様此所に被遊御座候故、古御屋敷山と地下人申伝、尤御屋敷山およそ百年余(河村註・実際には九十年余りである)ニ相成候由地下人申伝候得共、此所ニ何之証拠も無之、唯聞伝計ニ候事
 館邸跡の石垣を再度に亘って崩し去ったことは、慶安元年(一六四八)閏六月付で『有故雑文』に収録されている。野上の居館作業中であるから、これらの石垣は、ことごとく野上へ移転せしめたのであろう。下松に居館建設後十七年たらずのことであるから、石垣のみならず居館も同様移築したものと推測される。寛保元年(一七四一)には、右の『地下上申』に記される如く「此所ニ何之証拠も無之唯聞伝計ニ候事」となるのである。
 次に『旧記抜書』文化十三年(一八一六)野村登春書写には、下松館邸について、
  ◯下松館邸
  寛永八年就隆公下松御屋敷作事有之、八九十間四方可有之、小松山高サ十間餘、切岸東西二壇へ竹を植、御門三ツ有之、御廐惣構之外ニ有之、或茅葺板葺被仰付候、初ハ外構石壁ニ被仰付候處、少し高く候而公儀御遠慮ニ思召候、其上へ土を持かけ竹を御植させ被成候、作事奉行佐久間清左衞門相勤候事
と記されている。

小松山高さ十間余り(『旧記抜書』)はこの山であるが、現在は住宅となっている。

 また『徳山藩史』河合裕・明治十四年二月には、次の如く収録されている。
   下松御城地并御普請之事
  一寛永八年辛末今年下松河内村御陣屋落成分、内九拾間四方御門三[西南一ツ南一ツ東南一ツ]御長屋御厩等ハ御門外也[普請奉行佐久間清左衛門隆重勤之]
 右に記載した史料は、いずれも時代が降っての編輯ではあるが、まず御陣屋の所在地について見ると『地下上申』(一七四一)は、豊井村法蓮寺、『旧記抜書』(一八一六)は下松としてこれに符合する。右に反して『徳山藩史』(一八八一)は、下松河内村と明記している。大きいミスであるが、しいて誤記の理由を推考すれば、就隆公陣屋の広い裏山を現在もお屋敷山と称していることは、前述の通りであるが、このお屋敷山は、河内村に隣接し、就隆公の屋敷跡と河内村(現・下松市大字河内)との距離も約百間たらずである。即ち『旧記抜書』(同上)に記された高さ十間余りの小松山は河内村に隣接しているのである。(『下松市市域図』昭和五十年参照)
 又『正保国絵図』が、先に述べた如く不明瞭なことも、河合裕が『藩史』を誤り記載する要因となったかもしれない。
 さて『地下上申』の豊井村地下図寛保元年(一七四一)を明治二十年作成の豊井村の分間図(一分一間・六〇〇分の一)に比較してみると、前者の『地下上申』豊井村地下図(一寸一町三、六〇〇分の一の縮尺)が正確に作成されていることに驚くが、この絵図と『藩史』等の上掲史料を参考にし乍ら、更に現況と諸史料の比較検討をしておきたい。

『地下上申』豊井村地下図(部分)中央が御屋敷台である。(山口県文書館蔵)
下部の河川が現在の切戸川である。以下三図を比較されたい。左下が土井である。


豊井村法蓮寺御屋敷台付近図 『分間図』明治20年より作成


古御屋敷周辺(中国新聞社) 平成6年航空写真


毛利就隆居館付近想定図 「下松市域図」(昭和50年)に加筆作成

 『地下上申』豊井村地下図に「古御屋敷台」と記される処が、旧居館所在地である。東・西・北の三方を山で囲まれているので、屋敷台の地形は現在も余り変っていないであろう。ここに館邸が存在していたのである。
 その屋敷台中央部には、明治二十年の分間図・土地台帳によると、一枚で畑地一反七畝九歩(字法蓮寺一七二五番地)の平坦地(註一)があり、その南側に接する二筆(字法蓮寺一七二八番・一七二九番)も右と同じ高さの平坦地であったことが、明らかである。右の登記簿は、明治二十年でこの地に女学校創建にかかる造成以前のものであるから、右の三筆約八〇〇坪に主要建造物が在ったと考えられる。

居館跡地に女学校が創設されていた時代。この頃はその周辺が松山であった。『大下松大観』昭和十三年より引用

 お屋敷台の南側(正面)は切岸で東・西二壇に石垣を組むも公儀への御遠慮のため、土を持ちかけ竹を植えている(『旧記抜書』)二壇の石垣は必ずしも直線ではなく、かぎ型であって、石段や踊場を登り乍ら右の三筆の地即ち陣屋へ向ったものと思われる。この間切岸の南側(中央)と東南・西南計三ケ所に門が構えられていた(『旧記抜書』)ことが明らかである。

お屋敷台南側切岸二壇はこの付近であろう(写真はそのほぼ中央)


お屋敷台の南側切岸二壇はこの付近である(但し石垣は後世のもの)

 さて御長屋と廐(うまや)は、屋敷台地が狭隘なためか、惣構の外に在り、(『徳山藩史』)この内馬屋は『地下上申』豊井村地下図に「むまやのたん」と記されてその位置が、字法蓮寺一六七三番地・同一六七七番地付近であることが明らかであるが、御長屋の位置は不明である。

『地下上申』豊井村地下図に記された厩(うまや)が在ったのはこの付近即ち現・末光幼稚園の西側周辺である。

 『旧記抜書』に「小松山高さ十間余」というのは、河内村に接するお屋敷台の東側の小山で、現在は約半分が住宅とバイパスに変貌している。(航空写真・平成六年参照)現在の標高は三〇mで『旧記抜書』の「十間余」と符合する。
 現在は公用廃止され道はほとんど存在しないが、明治二十年の分間図を見ると、字法蓮寺と字末光・寺田の字境の農道が付近の道に比較して広く描かれている。この道こそ居館に通じる主要な里道であって、現在はこれより約三十間北に法蓮寺を東西に走る市道があるが、この道は、当時は不在で、この付近は二壇の石垣の内下方の石垣かあるいは惣構が存在した位置である。
 又、多数の家臣の居住地については、東光寺方面の山裾高台や切戸川の東、土井(土居)が考えられるが、後者は鷲頭氏の家臣居住地に比定するのが、私の見解である。(『下松地方史研究』第二十七輯)あるいは、鷲頭氏滅亡後の再利用も充分考えられる。地下上申絵図に記載されていないこと、伝承の全く不在であることを思えば、侍屋敷は野上村のように整然と区画されたものではなく、河内村等の周囲に分散していたと考えられる。
 (註一)一枚による平坦地と記したのは、登記原簿(明治二十年)に畦畔の記載がないからである。畦畔があれば、当時は面積を登記法により必ず◯反◯畝◯歩外◯歩畦畔のように表示している。