下松にとっては、残念なことであるが、法蓮寺に居館が完成して十四年後、はじめて就隆が下松の館邸に入って七年後の正保二年(一六四五)六月には、早くも野上村へ移住の願書を幕府に提出している。この間の事情を『小箱旧記抄』は次の如く記している。
◯野上移轉
一(正保二年五月三日)日向守様より完道主殿福間彦右衞門尉被召寄、杉山三郎左衞門粟屋内藏允を以被仰候ハ御住所下松所から悪敷、御屋敷廻り萬事御不勝手ニて御難儀ニ候間、野上へ御住所被成御替度いかゝ可有之候哉、いつれの道ニも殿様御意次第ニ御座候、御公儀向不苦儀ニ候は被仰伺被下候様ニとの儀ニ御座候、右之趣殿様へ主殿彦右衞門申上候ヘハ下松野上へ所替之儀被聞召届候、勝手次第いつれへなり共可被仰付候、御公儀向別條有之ましく候間、彌右之御望ニ候ハヽ野上新地屋敷之繪圖被相調候て可被指越候其辻を以御公儀へ可被仰上通被成御意候付而、日向守様へ主殿彦右衞門致参上、三郎左衞門内藏允を以右之段申上候ヘハ御意之趣被聞召届御満足ニ候、野上新地繪圖調可差上候間、彌以被仰伺被下候様ニと被仰候事
慶安元年(一六四八)六月には、幕府の許可(『徳山毛利家記録類纂』)を得て同年十月居方の建築に着手し、約一ケ年をもって完成、同三年六月には、江戸より帰国して就隆は、野上の新邸に入っている。(『徳山藩史稿』)
九月には、野上村を徳山と改名し、慶安三年(一六五〇)には、藩名の正式許可を受けたことが明らかである。又『有故雑文』慶安元年(一六四八)には、
◯幕府老中連署奉書
周防國下松毛利日向守屋敷構、所悪ニ付而同國北野上村江移度ニ付而、彼地ニ屋敷構有之候而西之方堀をほり築土手懸塀門建候事、東北之方は片岸ニ付而其上ニ懸塀事南之方築土手懸塀門建候事、繪圖之通達上聞候之處、普請可申付候旨被仰出候、可被得其意候、恐々謹言
慶安元子 松平伊豆守信綱
六月十五日 阿部對馬守重次
阿部豊後守忠秋
と記している。
次に『徳山藩史』河合裕所収には、館邸移転について次の如く述べている。即ち
野上庄江御城地御引移御普請並御城内坪数等之事
一慶安元年戊子下松之御陣屋北野上村江御引移[後野上ヲ徳山ト改]十月朔日鍬初[一本十一月十九日鍬始同月廿九日新始ト云]
野上町野村与三右衞門勤之、為御祝儀米三俵二種一荷被下之、惣坪数壱万六千七拾四坪、同二年己丑十月廿二日落成、同三年庚寅六月十日御帰城直ニ新館江御移徒[普請奉行粟屋七郎右衛門勤之]
として御城地移転作事を詳しく伝えている。