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(七) 雑感

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 毛利就隆の居館所在地については、先に述べたように、現在豊井村(法蓮寺)と河内村の二説が存在するが、河内村については、単純なミスを後世次々と踏襲したものであって、とうてい学説と云えるものではない。しいて云えば、『正保国絵図』が記載を誤ったこと、御長屋の一部や家臣居住地が主として隣接する河内村に存在した可能性は充分あるが、それとても中心は館邸であって、豊井村というべきである。われわれに与えられた課題はむしろ、何故誤ったかを検討するにある。
 下松に殿様の居館が構えられたのは、古墳時代は別として、南北朝時代鷲頭長弘によるものと、右に述べた毛利就隆の二度である。
 鷲頭長弘は、足利尊氏から、周防一国に於ける抜きん出た軍事力により、周防国の守護として、建武の中興より約二十年にわたり、一国の政権を下松に樹立している。しかし骨肉相食む同族の戦闘を好まなかったためか、長弘の死後直ちに大内弘世によって、逆に鷲頭氏は滅ぼされる結果となった。もし戦国の世の倫理感が長弘にあれば、後世に憂いなきようその抜きんでた軍事力は、政権掌握と同時に宗家(弘世)に向けられたはずである。西の京は下松に樹立され、下松湾を中心とする交易はさらなる富を下松にもたらしたであろう。
 今回述べた就隆の下松居館も狭隘の故に、わずかにして北野上村に移築することとなったが、もし十年前末武村を本藩に返還しておらなければ、末武平野の方が移転ははるかに容易なはずである。下松は余り殿様とご縁のない地と云うべきか。
(平成九年十二月)