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(一) はじめに

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 関ケ原の戦いの後、防長二ケ国に減封となった毛利輝元は、長府・岩国の二支藩創設後、元和三年(一六一七)に、子就隆に下松を中心に三万石余を分知している。
 就隆は、輝元の二男として慶長七年(一六〇二)側室(児玉元良の女)との間に伏見で出生している。慶長八年(一六〇三)輝元の帰国にともなって側室(のち周慶大姉)も子就隆(当時は百助)を連れて山口に帰っているが、翌年七月に側室は卒している。時に就隆はわずか三歳であった。周慶寺はこのなき母の菩提のために就隆が建立したものである。のち彼は寛永八年(一六三一)下松に居館を創設し寛永十七年(一六四〇)には、自分の側室(永心院)のために永心寺(現・松心寺)を建立している。又これより七年後の正保四年(一六四七)には就隆の乳母(清安院)のため清安寺を建立している。
 本論は、これら毛利就隆によって下松に建立された清安寺・永心寺・周慶寺の三ケ寺について草創期を中心にその経緯を述べるものである。

毛利就隆墓所