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(三)

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 しかし清安寺は短期間で廃寺となっている。即ち元禄三年(一六九〇)七月二十五日(墓石銘文)長意和尚遷化後清安寺の寺地は処分され、大工庄左衛門へ、のち寺迫弥兵衛作人へ渡ったと伝えている。又清安院殿の位牌は、守護のために妙法寺へ遷したことが明らかである(『毛利家御在所廟兆録』同上)

清安寺廃寺後清安院・本流長意両墓は妙法寺の左の竹林付近に祀られていた。右は妙法寺本堂


妙法寺山門

 次に清安寺を廃寺としたのち新しく位牌の守護に当たった妙法寺は、寺敷御除石高八斗三舛が与えられ、清安院の石塔守護に宛てられている。即ち
  一妙法寺ノ儀ハ薬師ノ寺内ニテ、清安殿ノ御石塔有之、葬礼場寺敷御除石高八斗三舛前御除置キ候通申伝・証拠物ハ無之、但畝反不申、寺被キ山御除地之内也、右之通ニテ御石塔ノ守護等仕来候由(『毛利家御在所廟兆録』同上)
 又妙法寺住職独光髻岩は、『寺社由来』で寛延二年(一七四九)七月藩に対し次の如く上申している。
  一当寺往古より禅宗・開基不知申
  一開山一峰宗順大和尚・天文廿一癸丑(ママ)正月廿九日死去、(中略)
とし続いて次の如く記している。
  一本寺 同郡久米村慈福寺
  一本堂三間四面、右御領主より御建立、末々修補被仰付候
    同屋鋪御除
  一本尊薬師如来壱体(御長四尺余)、行基菩薩の作秘仏、拾七年目ニ開(帳)作脇立日光菩薩月光菩薩弐体新仏、拾弐神古仏作不知申、馬頭観音一体作不知申、毘沙門三体作不知申
  一薬師木像壱体、門ニ有之、作不知申
    右何も往古より安値(置)、わに口弐ツ、内壱ツ無銘、亦壱ツ元禄年中
  一五輪石塔壱ツ
    右古日向守(毛利就隆)様御乳母御墓、法名清安院殿光誉栄真大姉、寛永廿一甲申三月十三日、西丸様御遺言ニ付伏見より此所え御送辺野(ママ)、俗姓奈古屋土佐妹[只今奈古屋頼母家先祖という]
  一記録棟札御判物古筆抱の末寺末庵小社等無御座候
   右当寺由来如若御座候
    寛延弐巳年   都濃郡豊井村南溟山
      七月       妙法寺(印)
    井上武兵衛殿
 右に記されたように、本堂が領主によって建立される等清安院の石塔(註一)は、妙法寺に遷されてのちも手厚く守護されていたことが伺われる。
 (註一)
  清安院五輪塔は、軟質の花崗岩地上一間四尺余りで五輪塔中下松市内で最大である。刻銘としては、空輪ケン・風輪カン・火輪ラン・水輪バン・地輪アンの梵字が大きく刻まれている他地輪正面には次の銘文がある。
      寛永廿一年
      清安院殿
     孔光誉栄真
        大姉
      三月十三日

清安院殿五輪塔 (大谷妙法寺墓地)

  おそらく当初は、清安寺に隣接して造立されていたと思われる。
  開山本流長意の無縫塔(卵塔)は、地上高二尺六寸四分の質素なものであって、基礎に次の如き刻銘がある。
      元禄三庚午年
      本流長意和尚
      七月廿五日
  (尚石塔に関しては、市内の石造物の項を参照のこと)