ビューア該当ページ

(一)

474 ~ 478 / 541ページ
 鶴岡山松心寺は、もと永心寺と称し、毛利就隆の側室永心院の菩提寺として、寛永十七年(一六四〇)建立したものである。

鶴岡山松心寺


松心寺境内(中央上部)周辺図 左の斜線は参道である。 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

 永心院は、伊勢姫君(称大河内)、吉姫君(葉室頼孝室)の御産母で、富山清右衛門の女である。寛永十六年(一六三九)八月二十一日卒、法名は、永心院殿月窓永心大姉である。
 他に同寺には、祥光院・長昌院の石塔が存在する。
 祥光院は、毛利就隆の息女(伊勢子)で、寛永二年(一六二五)五月朔日に江戸桜田邸に於いて出生しているが、生来病弱のため未婚のまま寛文十年(一六七〇)正月十一日四十六歳で卒している。一般には、肺病とされているが、四十六歳は当時としては、相当の年齢であって、他の疾患とする説もある。いずれも判然としない。法名は祥光院殿瑞中以松大姉で、河内村出迫に於いて火葬にしている。此の地は、灰塚の松と称し、『地下上申村絵図』寛延二年(一七四九)には、その位置に松一本(通称お姫松)が描かれている。
 長昌院は、祥光院の乳母で法名長昌院殿幸安寿慶大姉、承応三年(一六五四)八月二十日卒である。
 このようにして永心寺は、永心院・祥光院・長昌院の菩提供養をなせるものであったが、後徳山藩毛利家菩提寺として、大成寺建立に付徳山に引いている。降って元禄八年(一六九五)七月十八日伊賀崎幾右衛門施主となり(『寺院台帳』都濃郡役場・明治十三年)建咲院四世白翁傳太和尚を迎えて、永心寺旧蹟に鶴岡山松心寺を建立現在に至っている。

永心院殿墓・斎垣内宝篋印塔 (昭和四十年頃撮影)


祥光院殿墓 五輪塔・斎垣内 (昭和四十年頃撮影)

『徳山藩史』には
 一建咲院末     河内村
             松心寺
 御除地高七石此反別二反弐畝拾二歩、内高弐石六斗境内、檀家二軒
と記されていて、松心寺に改号後も藩との深い関係を示している。
『寺社由来』寛延二年(一七四九)には、松心寺から次の如く上申している。
   都濃郡
      河内村 松心寺由緒
  一周防都濃郡河内村禅宗鶴岡山松心寺
   一当時往古禅宗永心寺と号、豊井村ニ徳山御屋敷御座候節永心寺殿(毛利就隆側室)御菩提所ニて御座候処ニ、其後正保二年ニ徳山え御屋敷被成御引せ候故当寺を徳山え被成御引せ、今大成寺と号、左候て同郡富田村建咲院四世白翁和尚当寺ニ来て永心寺を改松心寺と号、乍爾伝記無御座、申伝前書の通ニ御座候事
  一当寺本尊すし入観音、御長八寸
    但シ座像也
  一当寺開山同郡富田村建咲院四世白翁和尚 正保三年正月廿六日
  一二世法全首座 延享二年十一月五日
  一現住国丈
  一当寺ニ御霊屋有之、御法名斯の通
  一永心寺殿月窓永心大姉
   霊屋御石塔、御長四尺五寸、いかき弐間四方、右徳山の御先祖也
  一永心寺御灰塚当時南田中ニ有、尤かき上ケ上ニ松壱本有之
  一祥光院殿(毛利就隆長女)瑞中以松大姉
   寛文十年戌正月十一日、霊屋御石塔、御長壱間、いかき壱間壱尺四方、右同御先祖也
  一長昌院殿幸安寿慶大姉
   承応三年八月廿日と有、いかき無御座、御石塔高サ三尺五寸、但シ何れ様の御石塔此段不分明
  (付箋)「一永心寺殿 一祥光院殿 一長昌院殿
      右の御仏徳山大成寺ニて讃談の事」
  一当寺本堂弐間ニ三間
    右御公儀より御普請也、尤庫理(裡)手普請也
  一御除田畠七石
  一釣鐘無御座候事
  一本寺 都濃郡富田村禅宗建咲院
  一末寺無御座候
   右当寺の由来前書の通ニ御座候、以上
    寛延二年          河内村
       巳三月十七日       松心寺(印)

中央奥茅葺が松心寺 (昭和四十年頃)