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(二)

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 右の松心寺由緒は、当寺から藩に申し伝えを提出したものであるが、「其後正保二年(一六四五)ニ徳山え御屋敷被成御引せ候故当寺を徳山え被成御引せ、今大成寺と号」とされることは、注意を要するところである。即ち毛利就隆が居館を野上村(徳山)に移転すべく幕府に申請した(『小箱旧記抄』)のが、右の正保二年であって、三年後の慶安元年(一六四八)六月許可され(『徳山毛利家記録類纂』)野上村の居館が落成したのは、翌慶安二年(一六四九・『徳山藩史』河合裕)のことである。又右の『寺社由来』には、「当寺(松心寺)開山同郡富田村建咲院四世白翁和尚正保三年正月廿六日」と記されているが、正保三年(一六四六)は未だ西豊井村法蓮寺に居館のあった時代である。
 徳山での菩提寺即ち大成寺の建立は、徳山へ居館を移転した後のことであろうが、その建立年代については残念乍ら直接明確な史料に接しない。しかし『寺社由来』に掲載される「大成寺由来校概記」には
  (前略)「今之寺営建棟札上梁文等記録不遺存候、別記有大成禅院大鐘銘叙文、所謂延宝二甲寅年(一六七四)四月念七日(以下略)」
と記し又『山口県寺院沿革史』(昭和八年秋)にも
  「延宝二甲寅年(一六七四)大成院を聖福山大成寺と改めて竺印和尚を開山として菩提所を定める」
としている。

大成寺鐘堂

 右の大鐘銘叙文は、誤りないであろうからこれより推して、延宝二年(一六七四)大成寺建立直後永心寺のご位牌も、大成寺へ遷したものと思われる。
 次に白翁傳太和尚による松心寺建立について検討したい。『寺院台帳』都濃郡役場(明治十三年)は、はるか後世の寺院からの提出書であるが、これによると元禄八年(一六九五)七月施主伊賀崎幾右衛門創建と記されている。かかる史料からすれば、大鐘銘文による延宝二年(一六七四)と寺院台帳による松心寺建立元禄八年(一六九五)まで、約二十年の隔たりがあり、『徳山藩史』の「鶴岡山永心寺[后改松心寺]」や『寺社由来』の「永心寺を改松心寺と号」のように単なる改号ではなく、実態は高僧を迎えて旧蹟への再建立に近いものであったとも解される。(但し永心院・祥光院・長昌院の石塔は境内在所のままであって藩との関係は継続している)
 右に掲載した『寺社由来』に現住國丈が白翁和尚を当寺開山と記したのは、かかる理由によるものであろうか。尚検討の余地を残すものである。
 尚國丈が宝暦七年(一七五七)本堂を再建した際の棟札を掲げて毛利氏との関係を偲びたい。