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(一)

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 周慶寺の経緯については、前身を大蓮寺とし、時宗西福寺が衰退後その跡地へ移り、のち毛利就隆により周慶寺に改号したとする説が古くからあるが、周慶寺はもともと西福寺として建立され、のちに現在地に移転、更に周慶寺に改号したとする説も根強く存在している。

周慶寺所在地◯ 下松市管内図引用 (平成五年)


右は周慶寺境内周辺図(明治二十年) 左は清泰院殿石塔図

 後者の説を紹介しよう。
 『山口県の地名』日本歴史地名大系三六(平凡社・一九八〇)
  「寺伝によれば、天文年中(一五三二―五五)大内氏が現在の地から東北方三町ばかりに西福寺として建立。開山は広蓮社乗誉一角岌翁という。大内氏の滅亡後は衰退したが、寛永三年(一六二六・一説には元和年中)、毛利輝元の次男就隆が亡母の菩提を弔うため、その法号清泰院殿栄誉周慶大姉によって周慶寺と改め、新たに貞誉九阿に住持せしめ、祠堂田を寄進した」(以下略)
『山口県寺院沿革史』(防長史料出版社・昭和八年)
 「抑当寺は往古西福寺と称し今の地より艮之方(河村註・ゴン・北東)三町計りの所にありて天文年中大内氏の建立なり、開山は広蓮社乗誉上人一角岌翁和尚なり(天文十八己酉年七月廿五日寂)」(以下略)
『周慶寺本堂前案内板』
 「当寺は南北朝から室町時代山陽・山陰の西部一帯を支配した六ケ国の守護大名大内氏によって天文年間西福寺として建立された。開山は広蓮社乗誉上人一角岌翁和尚である」(以下略)

周慶寺境内案内板

『浄土宗山口教区誌』(浄土宗山口教区・平成七年)
 「当寺は守護大名大内氏により、西福寺として天文年間に建立された。開山は広蓮社乗誉上人である。大内氏滅亡後、元和三年(一六一七)徳山藩主初代毛利日向守就隆公は、後母君清泰院殿栄誉周慶大姉(毛利家三代左馬頭輝元公室)追善の為に八世乗蓮社貞誉上人を住持せしめ菩提寺として、七堂伽藍を再建する。御屋敷山築城迄仮館となる。二十世憧蓮社健誉上人は本堂を造立し伽藍壮観を尽せり、天保六年失火により本堂庫裡灰燼に帰す。嘉永六年毛利公の寄進により本堂再び建立す。」(以下略)

周慶寺本堂(昭和四十年頃)