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(二)

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 以上はすべて寺伝をそのまま紹介されたものであるが、大内氏の時宗西福寺建立(天文年間)説は、出典不明であり、御屋敷山築城迄の仮館説も、居館建造の際作事役人の執務、又領主の巡視の際の宿泊等に利用された程度であろう。あるいは、毛利広豊公の御隠居所が、(下松町より北ヘ一丁の処・幅三七間入三五間)宝暦十三年(一七六三)に完成されるまでの仮居館として周慶寺が使用されている(『徳山藩史』)ので、これを誤り伝えたのであろう。いずれにしても御屋敷山に築いたのは、居館であって城ではない。
 このことはさて置き、周慶寺の沿革に於いて最も注目されることは、右に掲載した著書が、いずれも周慶寺は、西福寺(時宗)として建立されたと明記していることである。然るに『寺社由来』寛延二年(一七四九)は、周慶寺の前身を大蓮寺とし、時宗西福寺が衰廃後この旧跡に移り、周慶寺と改号したと記していて、前の説と大きく袂を分っている。
 まず『寺社由来』を掲載しよう。既に寛延二年(一七四九)周慶寺現住十五世兼誉が、藩に対し由緒を上申したものである。即ち
  「原夫麟祥山周慶寺者、疇昔号林松山大蓮寺也、開山岌翁上人浄土鎮西流之宗師、而徳行不孤、長坐自己安心之床、恢開化他利生之扉、勤而無怠慢、仰而称開祖、終示寂滅、自爾已来相承七世、漸々衰廃矣、至第八世貞誉上人、大建法幢度脱群生、雖然土地湿弊而不長久、故相攸徙寺於西福之旧跡、今地是也、然此地者本時宗道場而一遍末流也、天文廿一年頃依大内義長之裁許、如先例可執務、寺領等判物于今現在焉、雖然何時不知西福寺之頽破也、上人尋其古基移於大蓮、而顕貞誉中興之功、雖然開基中興共年月未詳、而後元和四年毛利就隆公、於下松庄経営館舎之時、来謁上人帰依宗風、故為北堂周慶大姉菩提安置位牌、而寄附於寺領五十石、而干時改林松字為麟祥、革大蓮号周慶寺、可不懈奠供殷重、将来香火因縁者也」
 これによると、麟祥山周慶寺は、かつて林松山大蓮寺と号していた。開山岌翁上人は浄土鎮西流之宗師であったが、七世に至るまでしばしば寺運衰退した。八世貞誉上人の代に寺は栄えたが、湿地のため西福寺の跡地に移ったとしている。ここに西福寺(註一)の衰廃年代は明らかでないが、引寺後毛利就隆は上人の宗風に帰依し、よって、母君周慶大姉の菩提を安置し、大蓮寺を周慶寺と改号し五〇石を寄せたというのである。
  (註一)後述するように『慶長検地帳』(一六一七)には、西福寺を道場(下松)として記録されている。