さてこのようにして、周慶寺の前身を前掲の寺伝が西福寺とするのに対し、あとに引用した『寺社由来』即ち周慶寺十五世兼誉の上申書では林松山大蓮寺とし、のち頽廃した時宗西福寺の旧跡へ移転したとしている。
まず遺存する他の西福寺史料を紹介し、この点を検討したいと思う。
『寺社由来』『防長古文書誌』には、西福寺について、大内義長の次の判物が収録されている。
大内介判物写
周防国都野(濃)郡下松道場西福寺事、所令裁許也者、守先例云寺家云寺領并門前市屋敷、宣阿執務不可有相違之状如件
天文廿一年(一五五二)十月十五日 大内介(義長) (花押)
又この判物には、次の如き陶晴賢の添状がある。
尾張前司添状写
周防国都濃郡下松道場西福寺住職事、任今日[天文廿一 十 十五]御判旨、寺家云寺領云并門前市屋敷等、執務不可有相違、仍寺家修理勤行、弥可有馳走由、依仰執達如件
天文廿一年(一五五二)十月十五日 尾張前司(陶晴賢) (花押)
西福寺宣阿弥陀仏
大内義隆が深川大寧寺に於いて自刃したのは、天文二十年(一五五一)九月朔(『言延覚書』)のことであり、又大友晴英が大内氏をつぎ義長と名を改めたのが、翌天文二十一年(一五五二)三月(『棚守房顕日記』)であるから右の判物は、この改名から約半年後に記されたものである。『寺社由来』や『慶長検地帳』から明らかなように、西福寺は、時宗で下松道場と称せられていた。時宗は周知の如く、鎌倉中期一遍が開いた浄土系仏教の一派であって、諸国を行脚して念仏踊りによって教えを広めたので遊行宗(ゆぎょうしゅう)と呼ばれていた。特に鎌倉末期から室町初期にかけて盛行した一派で下松(中市)に於いても門前は市屋敷を形成するほど盛大であった。
右の書状から大内義長・陶晴賢は、天文二十一年(一五五二)この門前市屋敷並びに寺領を先例により、下松道場西福寺住職宣阿に許し、寺家寺領の執務を命じたことが明らかである。陶晴賢は、時宗下松道場の新興勢力に同調し、寺領を安堵せしめていたのである。
さて『山口県寺院沿革史』や『山口県の地名』は先に掲載したように周慶寺の前身をこの西福寺とし、現在地より北東三町の所に在ったとする寺伝を掲載している。而して右の判物から西福寺の門前には、門前市が在ったはずである。しかし我々の知るかぎり、天文末年の頃、東北三町のところに寺はともかく町屋敷が存在したとは考えにくい。
現在の周慶寺より東北へ三町とは、一間を六尺五寸竿で計算すると三町は三五四・五一mとなり、現在の「下松市立図書館」の裏付近となる。天文末年の頃、市屋敷がどこにあったかは断定できないまでも次の理由から、その位置は海岸に近い現在の中市、即ち周慶寺の門前であろうと思われる。
しばらく史料を検討しよう。右に掲載した大内義長・陶晴賢のご判物より六十五年後の『慶長検地帳』(一六一七)豊井村の項から抜粋しよう。
同所(現堤)
田二反二畝廿歩 米二石八斗五升 [中市ノ]助右衛門
同所(岡本)
畠一反四畝 米三斗八升 [西市ノ]源次郎
同所(風呂の迫)
畠七畝二十歩 米二斗 [東市]松右衛門
これ等の記載から就隆が分知を受けた元和三年(一六一七)、当時既に中市・西市・東市の存在が明らかである。
検地帳には、道場(西福寺)の所在地を中市と記してはいないが、門前市屋敷の中心は中市であり、勿論その東が東市、西が西市である。門前市屋敷の執務を命ぜられたのは、西福寺であるから、西福寺はこの頃既に中市に在ったことになり東北三町の地から西福寺が移ったとすることは難解である。
右に掲げた中市・西市等の地名は『慶長検地帳』(一六一七)に記載されるものであって、西福寺宣阿弥陀仏に右の判物が与えられた天文二十一年(一五五二)より前述の如く六十五年後のものであるが、西福寺とその門前の市屋敷は、現在の中市を中心に既に成立していたと考えてよい。
又、一方『慶長検地帳』では、大蓮寺の寺識即ち所在地を「後屋敷」と記している(本論(六)の項参照)。つまりこのことから西福寺が門前市屋敷(現在の中市)にあり、大蓮寺がその後の屋敷に在ったことが明確である。これらの理由から周慶寺十五世兼誉の上申書が正論であって、冒頭に掲載した説は史実を誤れるものである。