ビューア該当ページ

(四)

488 ~ 490 / 541ページ
 続いて『寺社由来』雑記に注目したい。
       雑記
  一開山広蓮社乗誉上人堂角岌翁大和尚(河村註・堂角は壹角の誤り)ト古損シタル位牌ニ見ヘタリ、年号月日ナシ、二世頼誉、三世良空、四世源誉、五世呑誉、六世増誉、七世心誉ト古過去帳ニ見ヘタリ、位牌年号月日共ニナシ、後ニ建立ス、八世中興乗蓮社貞誉上人九阿大和尚、示寂元和九年(ママ)戌七月廿四日、今至寛延二(一七四九)巳百廿七年ニナル、九世深誉、十世念誉、十一世諦誉、十二世真誉、十三世観誉、十四世猛誉、各示寂年月位牌ニ詳ナリ、十五世現住兼誉
  一清泰院殿牌所ト成、元和七年ヨリ今至寛延二年百廿九年也
 右の雑記は同様に周慶寺十五世兼誉が、開山以来の住職古過去帳を書写して藩に提出したものであるが、この中には、極めて信憑性の高い大内義長の判物に記された宣阿(即ち西福寺住職)の僧名は見当たらないようである。右の雑記(古過去帳)には、この頃既に入寂年号が不詳であることを記している。周慶寺境内に現存する歴代住職墓も、開山をのぞく二世と三世・四世と五世・六世と七世の合祀による三石塔は硬質の花崗岩で、江戸後期の追造立であり、周慶寺十五世兼誉の上申書と一致する。

周慶寺 歴代上人墓石

 かかる資料から過去帳や、二世から七世までの墓石は、後世の造立が明らかであるが、開山岌翁の墓石は、古く安山岩の墓塔が現存している。その基礎部には、次の如き銘文があって、年号も正確に刻銘されている。(石造物の章参照)



開山廣蓮社乗誉石塔基礎刻銘(正面) (その一)


同 側面刻銘(その二)

 墓石刻銘という極めて信憑性の高いものだけにこの銘文は、はなはだ注意を要する。銘文からすれば開山壹角岌翁は、寛永七年(一六三〇)七月廿五日と刻まれていて、周慶寺建立の寛永元年春(一六二四)より六年後のことであって、単純には周慶寺と改号しての中興開山と思われる。然るに右の『寺社由来』雑記には、開山壹角岌翁について「古損シタル位牌ニ見ヘタリ、年号月日ナシ」と記しているので『寺社由来』の提出された寛延年間には、既に示寂年月日が判然としなかったものと思われる。更に同書(雑記)には、八世中興貞誉九阿は、元和九年(一六二三)七月廿四日示寂と記されているから、右の墓石銘文の年月日と比較すれば、開山である岌翁の方が、八世貞誉九阿より実に七年も後の死去となる。『寺院沿革史』(昭和八年)には開山岌翁を天文十八年(一五四九)七月廿五日寂と記していて出典が判然としないが、誠に理解しやすい。これらの理由から寛永七年(一六三〇)七月二十五日は、入寂日ではなく、後世追善の折その年月日を石塔に刻んだのであろう。したがって当寺開山とは周慶寺に改号前即ち大蓮寺の開山であり、寛永庚午年は没年ではなく墓石の造立年月日であろう。寺が古いだけに石塔の銘文にすら解釈によほどの注意が必要である。(下松市内の石造物の項を参照のこと)