さて話を本論に戻そう。
右に記したように周慶寺は西福寺を改号したとする寺伝が存在するが、これを証す史料は、微小だに存在しない。即ち現在のところ西福寺を周慶寺に改号したとすることは理論上不可能である。そこで他の説即ち周慶寺十五世兼誉が藩に提出の、西福寺が衰退後その旧跡に大蓮寺が移ったとする説を検討しよう。
西福寺の衰退について推考するにその第一は、大内(陶)氏の滅亡である。毛利軍が下松へ進入したのは、弘治二年(一五五六)である。その二年後毛利隆元によって西福寺領四一石が奪われたらしく、これを家臣の冷泉元豊に与えている。(『萩藩閥閲録』一〇二)即ち
防州都濃郡下松西福寺領肆(四)拾壱石之地之事、任知行之旨、令裁許畢者、早守先例、可有執務之状如件
弘治四年(一五五八)三月十日 備中守(隆元)御判
冷泉五郎(元豊)
ここに冷泉氏は、大内弘世の五男弘正を始祖とする大内氏の一族であったが、興豊代の頃母方の冷泉家を名乗っている。のち子の隆豊は、天文二十年(一五五一)深川の大寧寺で大内義隆に殉じた(『言延覚書』)が、遺児の元豊・元満は、母方の祖父にあたる安芸の平賀氏を頼って陶隆房(晴賢)の追求をかわし、平賀氏とともにのち毛利氏に仕えている。右の裁許状は、前述の如く、毛利進軍による下松・鷲頭・妙見山の戦いから二年後のものであるが、この頃下松市域内に冷泉元豊(五郎)は相当の領地を与えられていたことが明らかである。
右は毛利隆元が、旧領主大内氏から与えられていた時宗西福寺領を没収し、新しく冷泉元豊に与えたものであるが、このようにして領主の滅亡は、寺院の経済基盤を奪い寺院経済の滅亡につながることが多い。現在の企業は経営を縮小し自衛策をとることも可能であろうが、寺院の場合伽藍を急激に縮小することは困難であって、寺領没収により急速に寺院は疲弊し、やがて無住となりついには、廃寺に至るのが常道である。他に一つの例を挙げよう。
霊昌寺は下松豊井保に在り、大内氏と深い関係にあったが永禄三年(一五六〇)十二月十二日付の毛利隆元宛行状によると、五〇石が没収され慈眼院景順にあたえられている。(『萩藩閥閲録』)更にその後毛利輝元は、霊昌寺領を興禅寺(安芸吉田)に寄せている。吉見広頼室(輝元の妹)のためである。(『寺社証文』)結果は西福寺と同様急激に没落したものらしく、現在では寺院跡すら定かでない。(註一)
このようにして、大内(陶氏)滅亡後時宗西福寺は、毛利氏による寺領没収を契機に衰退し、のちその広大な伽藍に林松山大蓮寺八世貞誉が引寺したものと推考される。したがって、大内義長から下松の門前市並びに寺家寺領の執務を命じられた西福寺を周慶寺の前身と解すべきではない。西福寺を改号して周慶寺としたとする伝説が一部で寺伝とされているが、西福寺は新領主毛利氏によって右の如く寺領を没収され経営基盤を奪われているのである。
(註一)
『慶長検地帳』(一六一七)には「寺識 二反七畝 米一石三斗七升 霊昌寺」と記されていて広大な寺院が存在していたことが明らかである。そのわずかのちの『寛永検地帳』(一六二五)には「霊昌寺屋敷 五畝 米四斗三升八合 弥市」「同所畠 二反六畝二十歩 一石六斗七升八合 弥市 貞次ヱ門 文左ヱ門」と記されていて寺院の存在はない。私はこの霊昌寺を下松の豪族鷲頭氏の庇護による寺(菩提寺か)と推測している。衰廃が余りに唐突であって毛利による寺領没収以外には原因が見当らないからである。西の西福寺、東の霊昌寺即ち鷲頭時代の下松の巨大寺院は、いずれも毛利の侵入により廃寺に至ったと私は推考している。