毛利輝元が、下松を中心に三万一四七三石余りを就隆に分知したのは、元和三年(一六一七)のことである(『打渡坪付帳奥書』粟屋豊後守宛)。次にこの年の検地帳である『慶長検地帳』(一六一七)に注目したい。(上部の写真参照)
『慶長検地帳』(部分)元和三年四月二十八日 右側西福寺下松道場寺識(二反四畝) 中央 大蓮寺寺識(八畝) 山口県文書館所蔵
西福寺については次の如く記している。
下松
寺識二反四畝 米二石四斗 道場
ミかん 一本 米 四斗
柿 三本 米 二斗
又寺領としては
田畑十四筆一町三反二十歩 米十九石八斗三升
が記され隆元による寺領没収(弘治四年・一五五八)後も、相当の寺領と広大な寺敷・作人が存在している。
次に大蓮寺については、次の如く記している。
後屋敷
寺識八畝 米一石六斗 大蓮寺
右の記載は、就隆が周慶寺を建立したと伝える寛永元年(一六二四)よりわずか七年前即ち元和三年(一六一七)四月二十八日付で井原四郎右衛門尉が粟屋豊後守に宛てた検地帳の記録である。これによると道場西福寺は「下松」に、大蓮寺は「後屋敷」に実在している。即ち西福寺は下松中市の門前市にあり、大蓮寺は、此所より東北三町の後屋敷に在ったことが明らかである。さてそこでこの検地帳から時宗下松道場(西福寺)と大蓮寺の寺敷・寺領を比較すると寺領減少とは云え西福寺の寺敷二反四畝に及ぶ大伽藍に大蓮寺が自力で引寺したとは思えない。仮に無住としても他宗であるから時宗(西福寺)信徒の熾烈な反対もあろう。移転の理由として前掲の『寺社由来』(一七四九)には、
「雖然土地湿弊而不長久、故相攸徙寺於西福之旧跡」
として大蓮寺の旧敷が湿地であったことを挙げている。大蓮寺の低湿地は事実としても、問題は、相手方の西福寺(下松道場)の方である。これについては「雖然何時不知西福寺之頽破也」と記すのみで、頽破の内容は、具体的には述べていない。又右の『寺社由来』を収録したものと思われるが『徳山藩史』の記述もほぼ同様である(後述の『徳山藩史』の収録を参照されたい)。
『下松市史』平成元年には、
「その後西福寺は没落し、その跡地に林松山大蓮寺が建立され、さらに毛利就隆が下松藩(のちの徳山藩)を興してからは、就隆の生母(輝元側室)二の丸(清泰院殿栄誉周慶大姉)の菩提所として麟祥山周慶寺に改められた。」
と記している。つまりいずれも就隆の関与を大蓮寺が下松道場(西福寺)に移転後とするもののようである。
思うに西福寺道場の無住や他に疲弊の理由も考えられるが、最大の要因は、自力による移転ではなく、前述の如く、大蓮寺貞誉の宗風に帰依した就隆が、母堂供養の気持があって既に西福寺へ引寺の段階で強力な関与をなしたのではないであろうか。短期間に多数の西福寺(時宗道場)信者を押切れるのは毛利就隆による権力行使以外にはないであろう。先に記した如く、隆元は西福寺領四一石を没収しているが、就隆は勢いの衰えた西福寺道場に対し更に一歩を進めたのである。前述の如く『寺社由来』には「西福寺之頽破也」と記されているが、実際には頽破に至ったのではなく、事実上就隆が頽破(廃寺)せしめたのではないであろうか。大蓮寺が道場へ引寺した年代は明確でないが、右の『慶長検地帳』の元和三年(一六一七)四月二十八日から周慶寺建立の寛永元年(一六二四・異説あり)暮までの七年間である。
このようにして就隆は、寛永元年暮(一六二四)母君周慶大姉菩提のために、貞誉の弟子廓蹄を開山として鱗祥山(初林松山)大蓮院周慶寺を建立したのである。寺号を大蓮院周慶寺と号したのはこのためである。また開山住職を廓蹄としたのは、高僧貞誉が寺院建立の前年元和九年(一六二三)七月に入寂したためである。同時に就隆は寺領五〇石を寄せている。この間の事情を『徳山藩史』は次の如く収録している。
鱗祥山周慶寺之事
一寛永元年甲子今年下松鱗祥山[初林松山]大蓮院周慶寺御建立周慶大姉御菩提之為也、当住廓蹄長老高五拾石御判物有之
附、元来周慶寺之寺敷ハ時宗之道場ニテ西福寺ト申、其時之国主大内介殿ニテ住職宣阿江継目之判物并尾張前司添判一通有之、其後西福寺致退転故本山末大蓮寺開山乗誉上人より八世貞誉大蓮寺ヲ彼寺引地致し居住之処御建立相成、則貞誉弟子廓蹄住職被仰付也
(註一)第一章に掲載した毛利氏から地蔵院への多数の奉書御判物を参照されたい。
当時寺院は領主への礼を疎略にしてはならなかったのである。