毛利時代の本往還道もほぼ同様と云ってよい。街道の主人公は、大名行列であった。下に下にの声に応じて街道筋の百姓町人は、道端に出て指を土につき下座したのである。即ち往還道が重要視されたのは、江戸と本・支藩、更には九州諸藩との通行のためであり、道はその目的のために維持・管理されていた。しかし時代の進展により、各村の閉鎖性は次第に緩慢となり、経済流通の主要路や寺社参詣の路としての役割を果したことも又事実である。
かかる山陽道の経緯はさておき、下松市域内に於ける右の近世往還道は、旧大河内村の峠から久米村の坂川に至るコースである。『御国廻御行程記』や『地下上申村絵図』によると、そこにはこれらに関連する種々の施設が存在したことが明らかである。
『地下上申』河内村地下図 寛延二年(一七四九) 山口県文書館所蔵 絵図の右端が、久保市から塩売峠に至る往還道である。
『御国廻御行程記』成立宝暦年間 山口県文書館所蔵 街道を中心に高札場・一里塚・駕籠立場等が記されている。
これらのうち御茶屋は、久保市七百弐拾四番地原田九市郎所有の宅地壱反弐拾八歩(明治二十年土地台帳)がそれである。寛保元年酉七月改の『御領内町方目安』には、表口拾七間入七間、尤東町之端江四拾参間弐歩、西江同七拾九間八歩と記されていて一般によく知られているが、久保市の高札場と塩売峠の駕籠建場は、現在正確な所在地が明らかにされていない。地域開発は近年その速度が速まりかつ大規模となっている。放置すれば、史料と現況との対比すら不可能となるであろう。もとより史料は、貴重な文献として永久に保存されるであろうが、私どもにとっては、それでは不充分である。当時の現況が少しでも遺存するうちに右の二件について、史料を検討し正確な位置を断定しておきたいと思う。