『御国廻御行程記』宝暦年間(一七五一~)には久保市に高札場が記載されており、又『御領内町方目安』寛保元年(一七四一)久保市町の項には、次の如く極めて詳細な位置が収録されている。即ち
一御高札場 但表口三間
但此所より東町端江六拾八間七歩、西江同六拾八間三分五厘
(河村註・当時一間は六尺五寸)
寛保元年(一七四一)当時も久保市町の西端は、岡市町(現在の字岡市六八七番地)との境であろうからこの方は明確であるが、東端の方は判然としない。おそらく二の瀬(白坂)にかかる橋附近と思われる。右の『御領内町方目安』の記録では、高札場が東西へほぼ六十八間余とし、久保市の中央に施設されていたことを示している。このことを念頭に明治二十年実測の字限図(分間図)を調べると、ほぼ中央に間口約二間余奥行一間(七一五番地)の一筆がある。土地台帳(閉鎖簿)からこの地は、明治二十年には畑地で面積二坪、久保市組の共同所有であることが判明する。町市の中央部それも道沿いに独立したわずか二坪の畑地があるのは、いかにも不自然である。この地には、現在は恵比須社が祠られているので、あるいは古くからの祠堂所在地のようであるが、久保市の町恵比須は、明治二十年土地台帳には、別の地即ち字久保市七二八番地(現在は道路)に面積一坪の登記があり、その位置は『地下上申村絵図』や『御国廻御行程記』とも符合するので、後世御高札場(七一五番地)跡地へ遷されたことが、これらの史料から明らかである。
分間図 字久保市(その一) 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

分間図 字久保市(その二) 『都濃郡河内村明治二十年地誌』

久保市高札場跡(現在は恵比須堂)
右に述べた二坪の地は、高札場が廃止された後もその経緯性格から村民の個人所有地になじまず、久保市組共有の畑地としてどなたかが耕作されていたものと思われる。久保市の町恵比須と高札場は、ともに往還道の北側にあり、その間に御茶屋(七二四番地)が存在したことになるが、このことは右に掲載した史料とも符合する。以上の理由から、字久保市七一五番地を高札場旧跡と断定するものである。現在の久保市町恵比須は移転されているので、史料を比較検討する上で充分な注意を願いたい。

『下松市市域図』(昭和50年製・2500分の1)に加筆作成