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(三) 駕籠建場

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 鹿児島藩は、既に享保のはじめ参勤の際山陽道を通ったことが明らかであるが、ほぼ同時代萩藩の参勤も一部海路から惣陸路に変更している。徳山藩では、元禄七年(一六九四)が陸路の初見である。『御蔵本日記』によると同年三月三日徳山を発ち、昼久保市の御茶屋で休み高森の御茶屋で泊まっている。このおり家臣の他伊賀崎善右衞門・磯部善右衛門・小嶋助之丞の有力三町人は久保市に、西豊井・東豊井・河内・山田・生野屋の各庄屋は道筋に出て見送っている。(但し供人数の一部は乗船)このような陸路の主要因の第一は、大名行列による藩主の示威行動にあったと思われる。しかしかかる行為も往来を可能にする道路やこれにともなう諸施設の建設が前提となることは、云うまでもない。今回調査した駕籠建場もその一つである。

駕籠建場跡付近 中国新聞(一九九五)

 駕籠建場は、幕府上使の通行・西国大名の参勤あるいは、藩主の藩内視察等に於ける通行の際景観のすぐれた場所に、駕籠を止めて休息する施設である。一般に道からやや高くした場所に駕籠を置いたようで、勿論便所の設備も必要である。
 さてこの駕籠建場が、山田村の南西端、即ち生野屋村寄りの山中に存在したことは『地下上申絵図』(寛延二年・一七四九)にも収録されていて、既に周知であるが、その正確な位置は、『山陽道』(山口県教育委員会・橘正)や『下松市史』(下松市教育委員会)にも記載されていない。以前私は河内村調査の折、その所在地を聴いた記憶もあり本論では、これとあわせて一歩を進めてみたいと思う。
 『地下上申村絵図』に記された位置をまず観察しよう。河内村久保市・岡市の往還道を経て西に進むと山田村に入る。山田村を西に進むと寺ケ迫・四郎丸・沢・割石である。割石の地は、花崗岩の大石が所々露出し、割石として石垣等に使用されていた由緒によるものである。割石を過ぎると道は、生野屋村に入るが、この村境は山林で沢・割石付近を塩売峠と称しその名称は、山田村・生野屋村両村村絵図に記載されている。塩売峠は山を切り通しして道を作ったもので、二間幅の往還道ではあるが、かつては昼間も暗く民家は不在で山林に覆われていた。山陽道は太陽の当る側、即ち山の南で明るい道のはずであるが、このあたりは逆である。塩売峠が昔から物騒な場所の代名詞とされていたのは、この為である。しおり(栞・枝折)とは山道などで目じるしの在った所を云うのでおそらく山田村・生野屋村の村境に道しるべがあったのではないであろうか。切通しに入る手前に幅三尺の小路があり、字西松口の小川へ通じている。小路の西は五〇坪程の畑地(現在は雑地四一・四二番地)でこの畑地と生野屋村境とのほぼ中間が、大名参勤の休息地即ち駕籠建場である。現在はかなりの変貌が認められ山も崩されているが、昭和五十年の市域図では、山の尾が国道より更に北にのびるなど、旧藩時代の景観を相当残しているので参照されたい。駕籠建場の位置は、現在は道からほぼ一m高くカズラで覆われているが、平坦地が認められる。

右 山田村・一里塚跡地(慶安元年・一六四八築立、元治元年・一八六四取除)
中央 山田村への主要道
左(畑) 河内村岡市六八一番地


現在の塩売峠往還道


昭和三十年頃の往還道


『地下上申』山田村地下図寛延二年(一七四九) 山口県文書館所蔵 駕籠建場は右端村境である


分間図・山田村字割石(明治二十年)
西南上部の道は畦畔を含めてのもので往還道はその下の方である。右上Aが駕籠建場跡


『下松市市域図』(昭和50年製・2500分の1)に加筆作成
当時山の尾根は、駕籠建場を経てこれより北方の村境に沿ってのびていた

 この位置からは、山田村・生野屋村の田圃を眼下にし、その背景は、美しい山並みである。駕籠建場は景観のすぐれた場を選んだに相違ない。

塩売峠駕籠建場跡より前方の風景を望む。跡地は雑草で覆われている。


駕籠建場北端より山田・生野屋方面を望む。