
駕籠建場跡付近 中国新聞(一九九五)
駕籠建場は、幕府上使の通行・西国大名の参勤あるいは、藩主の藩内視察等に於ける通行の際景観のすぐれた場所に、駕籠を止めて休息する施設である。一般に道からやや高くした場所に駕籠を置いたようで、勿論便所の設備も必要である。
さてこの駕籠建場が、山田村の南西端、即ち生野屋村寄りの山中に存在したことは『地下上申絵図』(寛延二年・一七四九)にも収録されていて、既に周知であるが、その正確な位置は、『山陽道』(山口県教育委員会・橘正)や『下松市史』(下松市教育委員会)にも記載されていない。以前私は河内村調査の折、その所在地を聴いた記憶もあり本論では、これとあわせて一歩を進めてみたいと思う。
『地下上申村絵図』に記された位置をまず観察しよう。河内村久保市・岡市の往還道を経て西に進むと山田村に入る。山田村を西に進むと寺ケ迫・四郎丸・沢・割石である。割石の地は、花崗岩の大石が所々露出し、割石として石垣等に使用されていた由緒によるものである。割石を過ぎると道は、生野屋村に入るが、この村境は山林で沢・割石付近を塩売峠と称しその名称は、山田村・生野屋村両村村絵図に記載されている。塩売峠は山を切り通しして道を作ったもので、二間幅の往還道ではあるが、かつては昼間も暗く民家は不在で山林に覆われていた。山陽道は太陽の当る側、即ち山の南で明るい道のはずであるが、このあたりは逆である。塩売峠が昔から物騒な場所の代名詞とされていたのは、この為である。しおり(栞・枝折)とは山道などで目じるしの在った所を云うのでおそらく山田村・生野屋村の村境に道しるべがあったのではないであろうか。切通しに入る手前に幅三尺の小路があり、字西松口の小川へ通じている。小路の西は五〇坪程の畑地(現在は雑地四一・四二番地)でこの畑地と生野屋村境とのほぼ中間が、大名参勤の休息地即ち駕籠建場である。現在はかなりの変貌が認められ山も崩されているが、昭和五十年の市域図では、山の尾が国道より更に北にのびるなど、旧藩時代の景観を相当残しているので参照されたい。駕籠建場の位置は、現在は道からほぼ一m高くカズラで覆われているが、平坦地が認められる。

右 山田村・一里塚跡地(慶安元年・一六四八築立、元治元年・一八六四取除)
中央 山田村への主要道
左(畑) 河内村岡市六八一番地

現在の塩売峠往還道

昭和三十年頃の往還道

『地下上申』山田村地下図寛延二年(一七四九) 山口県文書館所蔵 駕籠建場は右端村境である

分間図・山田村字割石(明治二十年)
西南上部の道は畦畔を含めてのもので往還道はその下の方である。右上Aが駕籠建場跡

『下松市市域図』(昭和50年製・2500分の1)に加筆作成
当時山の尾根は、駕籠建場を経てこれより北方の村境に沿ってのびていた
この位置からは、山田村・生野屋村の田圃を眼下にし、その背景は、美しい山並みである。駕籠建場は景観のすぐれた場を選んだに相違ない。

塩売峠駕籠建場跡より前方の風景を望む。跡地は雑草で覆われている。

駕籠建場北端より山田・生野屋方面を望む。