応安四・建徳二年(一三七一)今川了俊(貞世)は、九州探題として下向している。そのおりの紀行文『道ゆきぶり』十一月十三日の条に長府住吉明神(現・下関市住吉神社)に参詣し、旅を回想して次の如き歌を詠んでいる。
「日のうちに周防のくた松といふところにつきぬとかたられし事を、ふと思ひ出て待りしほどに」
この了俊の歌が遺存する下松の地名の初見である。その十八年後康応元・元中六年(一三八九)将軍足利義満の厳島詣でに随行した今川了俊は『鹿苑院殿厳島詣記』三月十二日の条に、三田尻まで船をすすめ途中
「にゐの湊こぎ過ぎて、くだ松といふとまりに着かせ給ふ」(註一)
と述べている。右の「くた松」「くだ松」の他に『鹿苑院西国下向記』元綱・同日の条では「下松」の字をあてている。
かかる史料から下松の地名は、南北朝時代既に成立していたことが明らかであるが、これらはあくまで残存史料であって、下松の地名起源は、右の史料を大きくさかのぼるであろう。
さてこのように古い歴史を有する下松の地名由来については諸説あるが、そのうち最も古い説は、「松樹に星が天降った」とする降臨伝説である。この伝説は大内氏による創作神話のようであるが、少なくともその原形は百済系渡来人による星信仰の伝播・発展につれて、村人の間に自然に発生したもので、本質的には、昭和期に至って唱えられた百済津説に符合することを、新しく本論で主張したいと思う。
(註一)にゐの湊とは、おそらく浅江村の新屋河内の沖であろう。