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(三)

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 まず降臨伝説を検討しよう。下松市は「星ふるまち」を自治体標語にしている。この美しく魅力的な標語からは、夜空に輝く星が松樹に天降り、七日七夜輝いたように解されている。下松の地名起源を松樹に星が降ったことに求めるものであるが、降った星は、単なる天体や星ではなく、北辰尊星であって、百済の王子擁護の神であるという。このことについて『鷲頭山旧記』(天正三年・一五七五・以下『旧記』と略す)や『大内多々良氏譜牒』はその冒頭部に於いて次の如く唱えている。『旧記』の一部を掲載しよう。
  「(前略)推古天皇之御宇三年乙夘九月十八日周防國都濃郡鷲頭庄青柳浦松樹大星天降而七日七夜赫々而不絶耀郷人寄異之成疑慮干時託巫人吾是北辰也今経三年百済國之皇子可為来朝為其擁護北斗干此為下降云云」(以下略)

『鷲頭山旧記』天正三年(一五七五) 鷲頭寺所蔵(部分)

 即ち青柳の浦(のちの下松)に百済の皇子を擁護する北辰が松樹に天降り、七日七夜赤々と耀いたことを伝えるものである。然るに降臨年代が誤りなきとすれば、実に千年近くも後に記された説話でありながら、降臨の年月日まで明らかなのは、いかにも創作じみている。又降臨が事実とすれば、それは隕石であって、七日はおろか一秒とて輝くことはありえない。星が輝くのは、地球上から夜空の星を眺めたときのみである。
 光市の光井(保・村)は、既に宝治元年(一二四七)を初見とする古い由緒を有するが、『風土注進案』には、「当村往古は明光ノ里と唱へたるよし、俚伝曰、昔北辰妙見星天降り玉ひたるを則産土神と崇め奉りしに」(以下略)と収録している。このように古い妙見社(信仰)の存在する処には、必ず星の降臨説が存在することは注目を要するところである。(尚光・下松に於ける妙見信仰については、十四章 妙見道に関する項を参照)
 そこで私はかかる神話を実体に即して、次の如く解することが可能ではないかと考えている。
 因みに『旧記』のうち青柳浦の松樹に大星(北辰・北斗)天降りとは、北斗信仰を有する百済人のある日突然の渡来、つまり星信仰の伝播を云ったのではないか。天降ったのは星ではなく星信仰である。いや、天降ったのではなく渡来したのである。百済の皇子とは、渡来人の首長であろう。この首長を後世琳聖としたのが大内氏ではないであろうか。琳聖太子の初見は、永上山興隆寺本堂の落慶供養の願文即ち応永十一年(一四〇四)とされているが、勿論遺存史料中のことである。いずれにせよ早期に北辰信仰が伝播したとすれば、それが下松以外のいずれ(例えば九州)であってもその伝播は、渡来人によらなければ不可能な時代のことである。
 星信仰が上陸した当時どのような教義・祭祀修法であったかは、判然としないまでも、百済系渡来人による北辰信仰の異国的様相を里人は、奇怪に思ったに相違ない。つまり青柳の浦での早急な北斗信仰の上陸・信仰を村人は、突如として大星が天降り赫々と輝いたと夜空の星に仮託して伝承したのではないであろうか。
 降臨伝説を有する地は光・下松のみでなく、津々浦々にあるが、星が天降ったと云う神話は、そのいずれの地も同様であって、北辰信仰の発展につれて自然に発生した地域伝承であろう。