その第一は、他市に於ける降臨説のように単なる社伝ではなく、下松の場合、数世紀にわたり妙見山上宮にご神体として北斗七曜石(隕石)が祀られていた事である。このことは隠れもない事実であって『旧記』にも明確に記されている。しかし、推古天皇の五年(五九七)桂木山の星殿建立について『旧記』は、次の如く記していることに注目すべきである。即ち
「(前略)同秋琳聖太子當国都濃郡青柳浦桂木山嶺宮殿御建立九月九日有参籠而從百済国持来之北辰尊星之御神躰納之」
つまり桂木山の星殿建立に際し渡来人(琳聖)は、そのご神躰として百済国より持来の北辰尊星を祀ったというのである。直接北斗七曜石(隕石)に関しては、その六年後即ち
「推古天皇十一年癸亥秋高鹿垣之嶺星宮御建立是云上宮御霊者北斗七曜石被納之」
とするのが初見であるが、七曜石も同様渡来人が持来したものではないであろうか。つまり七曜石やご神躰は、百済からの持来品であるが、『旧記』の「青柳浦松樹大星天降」との矛盾に配慮して右のように記したものと考えてよいのではないであろうか。
『地下上申』豊井村地下図 寛保元年(一七四一) 山口県文書館所蔵 左端が桂木山
その第二は、下松に星の降臨地が実在することで、現在では降臨説の有力な根拠となっている。即ち下松駅の東北約一〇〇mの処に在る金輪神社の松樹(通称鼎の松・降臨の松・一本松・昭和三十一年の調査では、地上二mで幹回三・一五m・現在は枯死)に星が降ったと主張されている。特に最近では、「星の降臨地」とするほか、境内案内板には「下松発祥の聖地」とも記されている。この金輪神社について『寺社由来』寛保元年(一七四一)原田市正上申には、かのうの宮・壱けん四方の小社有之先年明見社御こしかけられ候、年号存知不申候とされ『地下上申』寛保元年(一七四一)には、社名を嘉名輪明神小社(註一)とされている。然るにその由来について、松樹への降臨を上申書は明記してはいない。又『旧記』や『譜牒』にも降臨地は、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦と記すのみである。金輪神社への降臨の一件は、収録されておらず、したがって文献上明治以降の創作と断定せざるをえない。蓋し金輪社に降臨伝説が江戸時代既に実在しておれば、神社の由来の根幹だけに、当然上申収録されているはずである。明治に至り神仏分離以降その必要に迫られて境内(地籍図・明治二十年には間口八間奥行三間半に五間)に聳える松樹を、降臨の松に附会せしめたものと思われる。(他に原田宮司による明治初期、妙見史に関する創作が数項認められるが、既に先の妙見山に関する論文で指摘し、その時代背景等も述べたので拙稿を参照されたい)
金輪神社・金生神社・鼎社旧景(埋立以前)
当社は他に加名波社(下松妙見社縁記)嘉名輪明神(地下上申)かのうの宮(同原田市正上申)等の名称があって祭神・由緒すら判然としない。降臨の松とされたのは、明治に入ってからである。 写真は『大下松大観』昭和十三年より引用 |
玉鶴川舟溜
玉鶴川舟溜 手前が鉄橋の下部
舟溜りは先の金輪神社より約八〇〇m北西に位置するが、海抜はほぼ同等である。因みに舟溜り左右の田地海抜は、現在約二mである。(鉄橋下の道は海抜一・七m)
ところで金輪神社境内は、現在標高三mであるから、埋立て以前の田地は、右の玉鶴川に架かる鉄橋(舟溜)付近と同等と考えてよい。つまりこの舟溜りや金輪神社周辺は、ともに低地として開発の遅れた所であるが、おそらくは中世末頃の陸化(註二)であって、北辰が降った(北辰信仰が伝播した)とされる時代は未だ海であったのである。田圃となってからも、低地のため水はけが悪く、金輪神社の付近は、麦を蒔くのにも一苦労で私たちは、一帯をヒイル田と称していた。
写真田圃中右寄りの小社が金輪神社 (大正十年頃・相本高義氏提供)
星が降った場所が明確であることは、降臨説の説得に有意義ではあるが、北辰隕石の降臨が仮にあったとしても、金輪神社の地(松樹)ではなさそうである。
他に東光寺観音堂下の松樹説もあるが、この松も最近まで現存していて、最近の付会説である。いや古墳時代に一つの隕石が降ったという伝説にしたがってその場所や降臨の年月日を詮索すること自体学問の領域ではない。つまり『旧記』に記載される降臨の一件は、それが外来神であること、北辰(妙見)信仰が渡来人によって下松に早期に伝来したことを示している程度に解すべきである。
金輪神社周辺が当時海であったことは、単純なことだけに早くから指摘されていて、郷土史関係者の憂慮するところであったが、更に昭和二十六年四月に至って金輪神社境内に「下松発祥之地・七星降臨鼎之松」の巨大な石碑が建立されすっかり降臨地として市民に定着することとなった。下松は中近世の干拓地を発祥地とする程新興ではない。
下松発祥の地記念碑
将来このような案内板や石碑が市民・学童に与える影響を思うとき、誠に困ったことと云わねばならない。
(註一)『下松妙見社縁記』(明治期)には社名を加名波社と記している。宝城興仁氏は『下松地方史研究』第十六輯で「かなわ」は「加納」から来たもので、開拓の成功を祈り産土神として祭ったものとされる。
(註二)『下松地方史研究』第八輯 鬼武利夫氏の研究を参照されたい。
尚、舟溜については本誌二十一章を参照されたい。
「下松市管内図」平成五年に加筆