このような北極星信仰を有する半島人は、幾度となく渡来したであろう。古墳時代に北極星信仰が、我国に存在したことは、紛れもない事実である。(読売新聞 平成十年三月十日)
奈良県明日香村キトラ古墳 (中国新聞 平成十年三月十日)
七世紀末~八世紀初めの壁画。被葬者は渡来人の統括者であろう。天井星座の中心円内に北斗七星がある。
右のキトラ古墳とは、時代はやや異なるが、下松の宮ノ洲古墳(現在は不在)に注目したいと思う。(註一)
この古墳の存在する宮ノ洲(東豊井)は、背後に広大な田圃を有していないにもかかわらず、舶載鏡四面が副葬されている。この巨大な勢力は、半島との盛大な鉄等の交易によるものではないであろうか。又舶載鏡は、首長の政治権力、祭祀者としての地位を象徴するだけでなく、ヤマト政権からかかる舶載鏡の配布を受けたことは、ヤマト勢力と近密な関係を結び、かつ瀬戸内海の重要な交易拠点をも支配していたのではないであろうか。下松が朝鮮航路の中継的な要衝に位置していることからも、充分推考されるところである。
宮ノ洲古墳より出土した漢式鏡四面 (国指定重要文化財・東京国立博物館所蔵・下松市提供)
次に古墳が桂木山の突出部、宮ノ洲の海岸低地に築立されたのは、半島との交易者におのれの権勢を誇示するためと『下松市史』(平成元年・一〇九頁)は推定しているが、他に一つ祭祀者が古墳地で航海安全等の呪術行為をするため海(舟)に近い場所を選んだのではないであろうか。かかる交易地にあって、宮ノ洲に星信仰を有する一族の移入を想定しても、さほど不自然ではあるまい。
桂木山付近(下松市提供)
山は宮ノ洲古墳跡(日石蒸留装置の所)付近まで裾がのびていた。 古代桂木山は孤島の可能性が強い。
現在の宮ノ洲(州鼻)と笠戸島(左) (下松市提供)
宮ノ洲大橋架橋中 (昭和四十五年撮影)
はるか後世のことではあるが、康応元年(一三八九)の前掲『鹿苑院西国下向記』に
「下松といふ所へとく御入あるへきよし被仰出間、種々御儲をハ御船へ進上、其夜宮洲御所へ御看ありて」
と記している。つまり厳島詣をした足利義満は、そのまま西へ進み、迎えの船にのった大内義弘は、儀礼を尽くし、義満を案内して、宮ノ洲の御所に入っている。この時代に至るも宮ノ洲は、天然の良港として交通の要地であったことが明らかである。
又九世紀初頭の仏教説話集である『日本霊異記』には、百済からの集団渡来地として著名な河内国安宿(あすか)郡や、大和国高市郡の東漢(やまとのあや)氏一族の妙見利益の説話が記されていて、百済人による我国への妙見信仰の伝播を思わせるものがある。下松はその上陸地の一つであろう。
(註一)宮ノ洲古墳については『下松地方史研究』第三十六輯に山本一朗氏の新しい見解がある。