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(七)

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 星が天降ったという地域伝承は、下松(青柳浦)への星信仰の伝播を潤色・神聖化したもので、神話はその呪術性に鑑み古い時代から妙見信仰の発展とともに、青柳浦の土人によって語り継がれ、そのことが又妙見信仰の発展・神格化に寄与したであろう。根拠のない話ではあるが、先に述べたように新しく渡来した異邦人が、例えば桂木山山頂に於いて灯明をあげ星に向かって呪文を唱える等の神事をなしたとすれば、それは異彩を放ったであろうし、『旧記』や『譜牒』に記されているように、里人は異国的神事に驚き、「星が天降り赤々と耀いた」と伝承しても不思議ではあるまい。親から子へかかる伝説により村人は更なる奇瑞(きずい)を感得し、妙見神を畏敬したと推定しても支障はなかろう。
 下松の地名起源つまり降臨伝説について、大内氏が始祖を琳聖と主張するのは、百済の滅亡した六六三年よりはるか後のことである。即ち十五世紀半ば『李朝実録』享徳二年(一四五三)が初見であることが既に指摘されている。(『下松市史』一一四頁)おそらく琳聖太子説は、大内氏の創作であろうが、上稿の如く降臨伝説の原形は、これよりはるか古い時代青柳浦の土着によって、既に北辰信仰の発展につれて、自然発生していた神話ではないであろうか。大内氏はかかる伝説の上に十五世紀半ばに至って、聖太子像を託して琳聖を始祖とし(『李朝実録』)あわせて下松の地名起源(『大内多々良氏譜牒』)としたのであろう。大内氏は家系の伝統により、地方統括と李朝交易の盛大を願ったのである。
 又クダラツ(百済津)の地名がクダマツ(降松・下松)に転訛した年代は判然としないが、七世紀後半即ち百済の滅亡(六六三)以後当国との疎遠が一つの要因ではないであろうか。
 いままで降臨伝説は、大内氏による創作神話のようにも解されてきたが、琳聖等の話を除き原形は、妙見信仰にともなう自然発生的な地域神話(伝承)であろう。『譜牒』や『旧記』の降臨神話は、交易の過程で百済系渡来人によって伝来された外来神である北辰(妙見)信仰を、後世里人が神聖化・神話化して北辰星が天降ったと伝えたもので、帰するところ百済津説を声高らかに唱えているのではないであろうか。
(平成十一年十二月)

 本稿は、相本高義先生のご助言によるところが多い。又金輪神社と降臨の関係については、下松地方史研究会長の橘正先生も御心配の一件である。