字切戸付近(中国新聞・一九九五) ①山陽本線 ②切戸川 ③玉鶴川
字図 明治20年に加筆作成
『地下上申』豊井村地下図(部分) 寛保元年(一七四一) 山口県文書館所蔵 中央切戸川・左端玉鶴川
『下松市域図』昭和50年に加筆作成
現在は鉄筋の立派な橋が架かり、住人も中河原や中島の感じは微塵もないが、付近を見渡すことが出来た時代は川から川への細長の地形は、印象的であったはずである。土地台帳(明治二十年)では、下流部を字中島町、上を字切戸と称している。
切戸橋標柱
次に河川名でもある切戸を少し詳しく観察しよう。西側の玉鶴川には、現在は鉄橋(山陽本線)が架かり、この附近は舟溜りとして戦後もしばらく利用されていた。
舟溜りは云うまでもなく、上げ潮には海水の流入する地点であるから、最近は存在しないが、ほぼこの地点に高潮の被害を防ぐキリト(切戸・板戸)を構築するのが常である。つまり潮の差しひきに備えるもので、かかる構築物が後世地名として遺存することが多い。
玉鶴川舟溜(山陽本線下より撮影)
玉鶴川舟溜
市内では樋の上・樋の口・樋ノもと・樋の内がそのよい例である。特に玉鶴川は下流に堰(井手)が不在であるから、何らかの仕切戸は、絶対に必要である。この仕切戸が後世付近の地名となり、のち河川名にも転じたのではないだろうか。いずれにせよ切戸は検地帳に存在せず、余り古い地名ではない。樋と同じように井手も地名として定着することが多い。中井手・小井手・井手口・一ノ井手がその例である。
又地方によっては、構造物ではなく、単に淡水と潮水の交わるところ、即ち潮水の切れ口をキレト(切戸)と称していたことも事実であるから、地名発祥の要因として挙げておきたい。