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 従来からの有力な二説に加えて私の新しい見解を述べたが、いずれにせよ下流の地名に因んだものであろう。ただ中市・西市・中島・中河原の地が中世末成立していたことは史料(本誌十二章参照)に明確であるが、切戸や切戸川の地名は『慶長検地帳』(一六一七)や『寛永検地帳』(一六二五)には実在せず『御蔵本日記』宝永三年(一七〇六)十月十七日の「切レ戸川」(註一)なる名称が初見と思われる。降って『地下上申』(一七四一)には、本川とのみ記し、『輯製二十万分一図』(明治二十二年)や『山口県風土誌』(明治三十七年)には下松川としている。一般には上流は切山川(『正保周防国絵図』・一六四四)河内川・窪市川(『地下上申』)などと川を区分して在地名を称していたのであって上流を含めて切戸川としたのは、大正末か昭和に至ってからのごく最近である。
 (註一)『御蔵本日記』(宝永三年十月十七日)に「切レ戸川流を町之後寄洲御座候間、自力ヲ以掘り流し、冬向用水自由之様ニ仕度通」とされている。