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 以上は切戸川の名称について、その地名起源を中心に検討したものであるが、いずれにしても、結論を急ぐことは危険である。地名の多くがそうであるように、自然発生的にいつとはなく地名として定着する場合、その語源も当初から複数であったり、又判然としない場合が多い。又キレトがキリトに訛音する等の経緯もしばしば確認される。次に私が経験し困惑している一つの例を挙げよう。
 右に述べた字切戸より一・七五キロ上流に小字で大河内(下松高校のふもと)と称するところがある。この入口の橋は当初の木橋を含めて三回架けられているが、いずれも「おおこうちはし」と標柱に記されている。この地は江戸初期の前掲『慶長検地帳』『寛永検地帳』には大かいち(大開地)とされ江戸中期の『地下上申』(一七四九)には、大河内(おうかいち)である。その後明治に入ってからの『山口県大小区村名書』には大河内(おおがわち)と記され私たちもそのように呼んで今日に至っている。欄干に標示された「おおこうちはし」なる名称は慣習上も又歴史的にも根拠がなく、しいて云えば関係者が大字名の河内(こうち・旧村名)と小字名の大河内(おおがわち)を混同して記したものであろう。

大河内周辺 左寄が大河内橋 左上は下松高校グランド (中国新聞・一九九五年)


大河内橋の欄干標柱

 このことだけなら関係者の単純なミスであるが、この地方にも新しい入居者が多く現在では、橋だけでなくこのあたりを、むしろ「おおこうち」と称する人の方が多くなってしまった。私が困惑していると記したのはこの点である。この調子でいけば、次の世代には、おそらく小字も橋も「おおこうち」に転訛するのは間違いない。いや地名とはこのようなものかも知れない。
(平成十二年二月)