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1 地名から見た昔の下松

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 下松の地名は妙見山古記や下松妙見社縁起によるといわれている。妙見山古記によれば
 周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦有大樹留松樹上而七昼夜赫々不絶
とある。下松妙見社縁記によれば
 敏逹天皇七年(五七八)戊戌の九月十二日の夜半豊井かなはの松の上に光さして天日の如し
とある。また鷲頭山妙見社伝承によれば
 推古天皇十一年(六〇三)九月十八日青柳浦古川ノ老松ニ降臨有之
とある。下松の古代は、豊井村一帯は砂洲の沼沢地であったと思う。この下松の湿土地帯、砂沼地帯が人々の居住出来るようになったのは出土品等より考えると、約七世紀頃であったと推定される。
 文明十一年(一四七九)十二月の玉祖神社文書に鷲頭出作(わしづでさく)とあるが、この年代頃、下松の地が鷲頭氏によって開拓されたのである。
 また、この鷲頭出作の語は下松の史書に出た最初の書見である。
 鷲頭出作について文明十八年(一四八六)の国衙目録に
  鷲頭出作保 田数 田十町九反二四〇歩
        高  七〇石三斗六舛二合
と記されている。慶長検地帳慶長十五年(一六一〇)には
        田数 田八九町八反二畝十歩
        米  千三百三十五石八斗
とある。
 鷲頭出作時代(一四八六)と慶長検地時代(一六一〇)を比べてみると、約百四十年間に田数は約八倍開拓され、米高は十九倍増えている。また反収では前者では一反に約六斗四升、後者では一反に約一石四斗の収穫である。現在では畝(せ)でき(一畝に一俵、一反に四石)を豊作といい平年(普通の年)は一反に八俵(三石二斗)前後といっている。
 慶長検地帳には「たやかいち」の地名が出ている。これは「田屋開地(たやかいち)」の意で、田屋は田小屋で耕作者が自分の家から来て開拓地に建てた簡単な小屋で、その開拓地を田屋開地といった。
 当時、鷲頭氏の荘園は現在の中豊井を本拠とし、豊井八町堤(どて)の辺りまで開拓していたと思う。鷲頭氏の荘園が既に十分開拓されたため、追加開墾特許状を得て開墾した土地を追加開墾地といった。加納といった地方もあると柳田国男先生はいわれている。
 下松の「かなは」はこの加納(かのう)からきていると思う。慶長検地帳には叶松(かなわまつ)とでている。また妙見山旧記の最初に出ているかなわの近くを流れる古川(ふるかわ)の地名は慶長検地帳に数ケ所出ている。「かなわ」について下松妙見社縁起は次の諸説をあげている。
1 降臨松(こうりんのまつ) 連理松(れんりのまつ) 相生松(あいおいのまつ) が鼎立(ていりつ)しているので鼎松(かなわまつ)という。
2 この神にかけられた願いは叶ふので叶社という。
3 上縄手(かみなわて)の略で中縄手は大小路、また下縄手は柳道でともに森崎で出合う。
と書かれている。最近は金生(かなふ)神社・金輪(かなわ)神社といわれている。これは金生、金輪といい金が生まれ商売繁盛の神として祭られているようである。
 「かなわ」は「加納」からきたもので、開拓にあたっては産土神を祭り、鍬入れの式があって開拓の成功を祈り、開拓が終わると社を建て産土神として加名波(かなわ)大神を祭ったのである。
 開拓がすすみ田屋が定住化し集落化すると自然にその辺りに寺院も出来た。その寺を田小屋寺(たごやじ)といったところもあるが、「かなわ」の辺りに利済寺といった寺があったが、田小屋寺にあたる寺ではあるまいか、地下上申の付図によると「かなわ」の辺りに下松の地名がかかれてある。かなわ社の辺りが下松の地名のおこりと考えられる。この地図が下松の地名のあらわれた最初の地図である。
 かなわ社の辺りの沼沢地を慶長検地帳で調べてみると
1 河原 河原田 土居河原 どいかはら 岩崎河原
2 石丸堤 内堤 堤田 中堤 現堤 外堤 神田堤 小堤 丸毛堤
3 田久塩入 塩入 磯ふち塩入
このように多数の沼沢地がかなわ社を中心としてあった。これらを順次開拓し現在の下松が出来たのである。
 これらの河原・堤・塩入等は開拓に関係のある言葉で、当時使われていた地名であることがわかる。これに反しわかりにくく地名辞典にもない地名は、古い時代に使われていた地名か、その土地の方言でその地方の古い時代の地名であったのではあるまいか。
 むつかしい地名をあげてみると
薬 ヤク ヤは湿地の意、クはクマ(曲)の意で地形の曲がった湿地帯。
安松 ヤスマツ ヤは湿地または雑木林 スは洲 安松は湿地帯で松や雑木林の湿地帯。
高なべ 平野の中にあって水害をうけることの少ない微高地 ナベは滑らかな地形。
吉敷 ヨシキ もと荒木(あらき)(新たに開墾した地)である。荒の字をきらい佳字の吉に改めたものをいう。
 これらの地名は東光寺の南にあつまっている点は注目すべきであろう。古い時代早く開拓され昔のままの地名であったのではないだろうか。概して下松の地名は湿地帯に関係したものが多い。みやすい地名は新しい時代につくられた地名で、むずかしい地名は、古い時代のものと考えてよいと思う。
 現在の西にあたる東光寺より山際にそって東の寺迫に通じている道路を境として、海側はすべて海であった。海を水田として陸地としたのである。なお豊井では八丁堤をきずき開拓した。この開拓が下松で一番古い開拓地と思われる。
 日本の古代は神仏混淆であった。神と仏は同じであると考え、同体であると信じ神仏に固執せず一体であるとした。下松の紀元についても下松妙見社縁起と妙見社古記・下松妙見社伝承の説があるが、下松妙見社縁起には
 吾は高天原にまします大神なり……加名波大神と御名をたたえまつる
とある。妙見社古記には
 吾則妙見尊星也
とある。妙見社伝承には
 コノ大星ヲ洲屋大神ト称シ桂木山ニ祭ル桂木山ハ即チ宮ノ洲山ノ事也……社殿立相成北辰妙見社ト称ス
と書かれている。
 縁起には加名波大神とあり、古記には妙見尊星とあり、また伝承には洲屋大神、また北辰妙見という。神仏は混淆し、特に妙見社伝承では同じ由来書の中に洲屋大神と北辰妙見を並記してある。当時の神仏混淆の有様がよくわかる。かなわ大神は農耕の神としてかなわ社に祭られ洲屋大神は漁舟の神として桂木山・宮ノ洲山に祭られた。
 洲屋大神について考えるに、洲の地名には洲・浜・海岸の湿地の意味、ヤは美祢の意である。洲屋大神は海岸の湿地帯の産土神の意であろう。宮の洲山の周辺は煮干の製造場で取りまき、宮の洲山の上には魚の群の見張りの櫓が建っていた。また船舶の仮泊地としても名高く、東風のときは西側に、西風のときは東側に碇泊して風をさけていた。
 こうして漁船の中心として桂木山に漁舟の神として洲屋大神が祭られ、農耕の神としてはかなわ神がかなわの地に祭られたのである。ついで両社は高志垣山に祭られた。
 鷲頭山妙見社伝承によれば
往時妙見社は高志垣に在りしが後に今の地に遷されしなり。伝説に妙見社は高志垣の山上に在りし時、光明赫々として海上を照射し近海航行の舟人大に悩みたれは、神威を畏れて海路より仰視すること能はざるの地に遷宮せられたりと云へり
と記されている。
 これは鷲頭氏の威勢が振るい航海中の船舶を武力で脅かしていたことを意味している。また鷲頭氏の勢力が次第に海岸より奥地に伸長したことを意味するものと思う。また鷲頭山に妙見社が建立されたことにより神仏一体はいよいよ堅く妙見信仰は一段と強まった。
 奥地の山田村に蓮台寺、生野屋村に妙見社若宮、来巻村に嶽妙見社、成川の妙見社が建ったのは、鷲頭氏が武力と共に妙見社信仰により勢力を伸長したと考えられる。
 下松の西部の青柳の浦の地名は、下松の古代史にしばしば出てくる。
 鷲頭氏は殿ケ浴に住し、切戸川の舟運を常に利用していた。そのため青柳の浦も次第に栄えた。鷲頭氏が亡びると切戸川の利用はなくなり、青柳の浦の名も忘れられていった。
 切戸川の川口の周辺には古い寺院が多いが、寺院の建物が造営されるまでには相当の年数がかかる。下松の市駅のはじまりは少なくとも鷲頭氏移住以後である。
 下松の歴史のはじまりは東部の宮之洲古墳埋葬人時代にはじまり、ついで中央地帯の鷲頭出作時代、ついで西部の青柳時代と発展したと思う。かなわ社を中心として開拓、農耕がすすめられた後、西部の青柳時代では漁業、塩業、商業が行われていたと思う。
 この青柳の浦は広い切戸川の河口であって、次第に切戸川の砂礫が堆積し三角洲となった後、ここを東豊井・西豊井にわけることになり、この三角洲(いくつかの砂洲よりなる)を南北に二分し、北を東豊井、南を西豊井とした。二分する前は無名のいくつかの砂洲であった。
 また切戸川が切戸とよばれたのは切戸の地名からであるが、切戸とは川の水流のため川の堤防が切れたことをいうが、切戸川を鳥瞰(ちょうかん)すると川筋がここで切れ、川が右折していることがわかる。即ち地名が東柳と柳になっているが、これは柳川が切れて新たに出来た方を東柳といい、元の方を元のままに柳といったものと思う。
 川の名はその地を流れる地名でよんでいる。例えば久保市川・出合川・中戸原川・大河内川・八口川・殿ケ浴川等とよんでいる。
 川の全長をよぶときは、川の中で一番有名な地名があればその地名でよんでいる。切戸川の切戸が当時一番有名であったのは切戸の地名が一番有名であったからと思われる。切戸は当時、切戸川の河口であった。現在の中島町に切戸の河口があった無名の砂洲であったと思う。切戸の傍にある正福寺がその当時有名な寺院であったと思われる。
 矢田謹一氏の「下松地方史研究第二輯下松の経済史」の記事を引用しよう。
 昔、豊後の国は今の阪神地方と貿易をしその交易のため、交通は瀬戸内海を海路で往復するか、または豊後水道から周防地方に上陸して陸路を通ったであろうことがわかる。
 その交易の状況を書いたのに「摂津記」というのが大分県佐伯市の栄賢寺(これは豊後の毛利氏の菩提寺)にある記録に、平安時代の末期(約九〇〇年前)摂津に行く途中、青柳浦に着き川の端にある一つの寺の庭先に棚があり、塩が盛ってあったので、その塩ふたにぎりと干魚とを交換した後、さらに川を上って舟を降り陸路をとったという記事がある。
 この記事からわかることは、すでにこのころに塩を作り交易していたこと、川(たぶん切戸川らしい)はかなり上まで舟でのぼられたこと、少なくとも殿ケ浴あたりまでのぼれたかもしれない。
と書いてある。こうしてこの当時漁業や商業、塩業が行われていたと思われる。また一遍上人の遊行念仏宗が中市に下松道場(西福寺)を開くに及び門前町として栄え、下松の中心とし東市・中市・西市の中市として開けた。
 斉籐昭俊著「日本仏教宗派辞典」によれば、「一遍上人の防長遊行は弘安元年戊寅(一二七八)の頃といわれ、また、時宗の僧侶は上人の遊行に従ってその土地に住まい農・工・商に従いながら踊り念仏、和讚を唱えた」とかかれている。このため中市の地は下松の中心街となり、下松のまちは中市を中心として栄えていった。
 次に前述のかなわ社をとりまく農耕地帯が次第に開拓がすすみ、一方では奥地に通ずる大小路の道も幅広く改修され、また笠戸島・大島等との運航も開け、荒神小路も通ずるに及び、中市はいよいよ繁栄におもむき、遂に中市の中に本町といわれる町名が出来、中市は中市と本町に分かれた。荒神小路の道幅が他の小路の道幅より広いのに注目する必要があろう。道の広狭は当時の交通量をあらわしている。
 荒神小路が通じ、また新町・浦町の浦浜に新川の入江・新町の入江(大正時代埋立て大正町となる)が出来るに及び、下松の浦は活気をおびるにいたった。東に下松の浦、西に青柳の浦の二つの港が出来、向背地の東部、中部の農耕地帯の発展につれ、下松の浦はいよいよ発展するにいたった。
 毛利氏が下松に水軍をおいたのも、この下松浦より東部一帯の海上にかけてであると思う。
 豊臣秀吉が天正十三年(一五八五)四月に四国征伐を決定した時、毛利輝元は援軍のため下松船出帆の準備を下知している。この時はすでに下松には毛利氏の水軍があったと思われる。御園生先生は毛利氏水軍について次のように書いておられる。
 毛利氏が御船倉を周防国都濃郡下松におく年代知れざれど、下松が毛利氏広島城又は防長移封後の萩城とも隔絶して地理上何等の連係なく、その位置の極めて不自然なること、並に下松が毛利氏と何等歴史的縁をも有せざること等より考えるに、毛利氏移封の後まだ城地の決定せざるに先ち、一時便宜により船手を此地に移し仮根拠地に充てしなるべし。
 これによってわかるように、下松浦はただ良好な港湾によって水軍の基地に選ばれたのである。明治時代に下松の良好な港湾を目指し、海軍燃料廠の候補地となったが、後下松の良好な港湾により大正時代に久原工場の建設となったのである。
 さかのぼれば慶長元年(一五九六)九月の沿海の令十二条には
 第一 沿海諸浦地子銭悉ク舟師ノ兵賦ニ充テヨ
 第二 鷁舟(こざぶね)四艘及舴艋(こぶね)其他広島下松赤間関ニ在ル所有船ノ用ニ共スル水手千人ヲ定ムルヘシ(以下略)
とあって当時の下松水軍の任務の重要さが知られる。
 慶長十六年(一六一一)に
 水軍を両組となし、村上元武、粟屋元時をその組頭とし、三田尻に住せしむ。輝元隊士の名に伝を授け水軍の条令を公布す。
とあるが、この年を以て三田尻水軍の下松よりの移駐であり、三田尻水軍のおこりと考えたい。
 この時まで下松は毛利本藩の水軍根拠地であったのである。
 元和三年(一六一七)四月、毛利秀就は弟就隆に都濃郡内の三万石を分知した。就隆は元和四年(一六一八)十一月にはじめて領地下松に移ったとあるから、この頃より徳山藩の水軍もまた下松におかれたと思われる。
 このようにして下松に毛利本藩の舟倉がおかれ、ついで徳山藩の水軍が下松におかれていたのである。この下松水軍の位置については下松地方史研究第十輯を参照されたい。
 この毛利氏水軍の跡(矢島氏開作、矢島家邸)を中心として下松はおこり、後下松町・末武南村・末武北村・太華村一町三ケ村にまたがる久原工場の建設が行われ、下松市の今日の発展をみたのである。
 下松の舟倉について参考までに徳山略記の記事をあげよう。
 ○下松町東之方御舟蔵之者浜辺二町余片側町成
 ○御船蔵江為火用心四十軒程空地被仰付候
また慶長検地帳に
 下松東市 面三間半 御舟頭 藤兵衛
      篭屋敷 一畝十歩有之
 これはお舟頭の住所と思われる。横に籠屋敷とあるが舟頭用の籠や役人用の籠の置場であったと思われる。俗間でお舟倉、お舟頭と「お」をつけているのをみても、当時舟方が重んぜられていたことがわかる。
 古代稀にみる優秀な古鏡とともに葬られた氏族――古代この地域の優秀な氏族といえば鷲頭氏であった。
 鷲頭氏は下松の前身鷲頭庄をおこし一時は周防に威を振るって鷲頭時代をきずいた氏族であった。鷲頭の名は他の氏の名に比べるとちがった感じがする。鷲頭の名は猛禽の頭である。また一方では鷲の峯といえば霊鷲山のことで、印度の釈迦の説法された地である。鷲頭氏と仏教との因縁も考えられよう。また鷲頭には氏族の頭、主唱者の意味があるような感がする。鎌倉時代に鷲頭氏が流刑に処せられたのもそうした謀叛からではあるまいか、推測にすぎない。
 尊星降臨はいつかといえば、妙見社縁起には
 敏達天皇七年(五七八)九月十二日
とあり。妙見山伝承には
 推古天皇十一年(六〇三)九月十八日
とあり。鷲頭山妙見之縁起には
 敏達天皇七年(五七八)戊戌之秋
とある。以上のようにいろいろの説があるが、一応敏達天皇七年九月十八日夜半にし、他日の研究にしよう。九月十八日は新暦でいえば十月下旬にあたる。晩秋の冷気が肌にしむ頃である。聖星降臨の夜を偲び戸外に出てみよう。十八夜の月は居待月(いまちづき)という。十五夜の名月の三日後の月で月の出がおそく、昔の人は月の出を座(すわ)って待ったといい、この月を居待月といった。
 夜半とは夜十二時の真夜中である。月も美しい、星も美しい秋空である。静寂な天地、中秋の空に輝く星、人の心に日頃は気づかない神秘の世界が感ぜられる。古代人は観世音菩薩の降臨と信じたのである。
 なお、鷲頭山妙見之縁起・妙見社縁起は神職により著され、妙見社古記・妙見社伝承は僧侶によって著されている。当時の神仏混淆の模様を知ることが出来る。
 また妙見山鷲頭寺は真言宗の寺院であるが、真言宗は星供を修し星祭を行い星をあがめる教である。
 当時鷲頭山には別当(鷲頭寺)六坊(中之坊・宮之坊・宝樹坊・宝積坊・宝蔵坊・宝泉坊)、経蔵、宝蔵、五重塔、楼門、仁王門及び末社の宿坊が並び建っていた。弘治二年(一五五六)の毛利氏との戦いで妙見山の営が陥ちたといわれるから、妙見社には少なくとも数百の僧兵がいたと思われる。その僧兵の中には少数でも真面目な学僧もいたであろう。仏道修行にはげんでいたであろう。こうした学僧は下松の歴史も研究していたと思う。当時の縁起、寺社の古記録は当時の歴史であり、当時の学僧の研究の結果である。今からみれば荒唐無稽と思えることも、当時は真実と考えられ、正しい歴史として信じられていたのである。
 現在伝説と考えられている中に史実を探究することは、後世の史家の責務であろう。