こうした方々のお陰でこの拙稿をまとめることが出来た。
八口 地下上申(ぢげじょうしん)に
下松・末武・花岡・生野屋・山田・久保市・吉原・八条此八ケ村より入(いり)つどひ申候由にて往古ヨリ八口と申ならわし候
と書かれてある。このように八口は八つの部落からの入口にあたる交通の要所であった。
1 八口の一番上(かみ)にある西念寺(さいねんじ)は真宗の寺院である。寛永三年(一六二六)の創建で現住職宝城興仁師は第十一代である。寺前に孝女お加屋の頌徳碑がある。
本堂に名工長五郎(ちょうごろう)作の親子竜の欄間の彫刻がある。この親竜は夜になると欄間から抜け出し、部落の上空を駆け巡り寺や部落を護っていたという。人々は恐れ、竜が欄間から抜け出し飛び廻らぬようにと、五寸釘を顔面に打ちつけたという。今も昔の古釘が竜の顔面に打たれたまま祀られている。その横の欄間には子竜がいる。子竜は五寸釘を顔面に打たれた親竜を見ている。この親子の竜の心情を思えば悲痛の念にうたれるのである。
寺の庭に石棺二基、七重塔一基がある。石棺の一つは末武村久米から、一つは富田村の大神(だいじん)から掘り出されたのである。
七重塔は下松新町の浄土宗の一本松の寮にあったものである。七重塔の格狭間(こうざま)の彫刻は室町時代のものであるから、この七重塔は室町時代のものに違いない。
他に五輪塔も三基ある。このうち一基は西念寺内より掘り出されたものであるが、地輪、水輪、火輪の形態から見てこの地方の最古のものと思われる。
2 八口の裏山に富士山の形をした小山がある。高壺(たかつぼ)といっている。山の頂上に壺の形をした凹(くぼ)みがある。これが高壺の地名のおこりといわれる。またこの山を一名東遣山(とうけんざん)ともいっている。東遣山は八口の西念寺の山号である。寺には寺名と山号がある。延暦寺・金剛峯寺は寺名で比叡山・高野山は山号である。西念寺は寺名で東遣山は山号である。
西念寺は西方の阿弥陀如来の極楽の浄土を念ずる寺である。東方の地に西方極楽世界より遣わされた意が東遣山である。この山号は西念寺の寺が創建された時、山号を東遣山と名づけ、山名も東遣山と名づけたものと思う。東遣山はこの地の霊峯である。この高壺の山を東遣山としたものと思う。西念寺の本堂に掲げる東遣山の額の字は、明治維新の名僧赤松連城師の筆跡である。
この高壺の山は昔の古墳の跡と思われる。村人は昔、白坂山の戦のときの戦死者を埋葬した所といっているが、そうした形跡はなく近くに五輪塔は一基もなく、千人塚もみられない。古墳であったと思われる。石棺に使用されていた石は取り出して山の田の石垣の石に使ったといわれている。またその後この古墳跡を再発掘し、貴重な副葬品が出土している。
(西念寺 宝城興仁・昭和通 中村春敏)
3 寺の前の岡を粟太郎(あわたろう)と小字(こあざな)をいっている。地下上申には
粟太郎と申所ハ、往古に粟太郎と申人居候故此所ヲ粟太郎と申伝へ候
とある。粟太郎の粟は五穀の粟で、太郎は小平地の意である。昔の人は粟太郎は粟のよく実った畑だったといっている。このことから地名が出来たと思う。
この土地の近くに門前屋敷(もんぜんやしき)の地名がある。五輪塔も二、三基あった。昔はここに寺があったといっている。
(昭和通 国井時正)
4 寺のうしろを流れる切戸川の淵を神田淵(かんだぶち)という。昔神田という豪農が堰を築き切戸川の流域を開拓したため、淵が出来下流一帯が開拓された。この淵を開拓者の名をとって神田淵といったという。
神田家の墓は近くの山に建てられている。大体、開拓者の墓は自分が開拓した開拓地を望むことができる処に建てられている。
(殿ケ浴 故 兼清廉助)
5 八口の西の山際(ぎわ)に松心寺がある。曹洞宗である。寛永十七年(一六四〇)に没した毛利就隆(なりたか)の側室永心(えいしん)大姉のお墓がある。またそのそばに永心大姉の姫、以松(いしょう)大姉の墓もある。寺の南の田の中に松の小松があったが、姫小松(ひめこまつ)といい姫を火葬にした跡という。
(昭和通 宝城興仁)
6 西念寺の前の岡に地上より四、五米のところに川石の大小をまじえた砂石の列があった。川の流れのあとといわれる。往古はこのあたりは川底であったといわれる。八口の地下を掘ると川の砂礫や貝殻が出ることによっても、この地が海底であったことが知られる。殿ケ浴や大河内まで海であって舟がのぼってきていたといわれている。
(昭和通 宝城興仁)
高壺(たかつぼ)古墳の副葬品
明治初年高壺古墳を土地の人々によって発掘したらしく、その詳細については伝わっていない。石棺の石は山の田の石垣に使ったといわれている。その後昭和の中頃再び古墳のあとを掘り返し副葬品を見付けた。立派な副葬品である。碧玉製管玉十個、石製勾玉一、ガラス製小玉二、金製耳環二、銅製耳環一。
(発掘者、昭和通 中村春敏、出土品は西念寺に展示)
発掘品については、山口県埋蔵文化財センターの中村徹也先生に鑑定を依頼した。左に先生の所見を記す。
この出土品は古墳時代後期(六世紀)の古墳の副葬品である。
この碧玉製管玉は島根県八束郡玉湯町玉造の花仙山のものと思われる。管玉の穴により時代を知ることが出来る。弥生時代や古墳時代の古いものは両側から穴が開けられている。片方から一気に穴をあけたのは錐の立派なものが出来、これは技術がすすんだ以後で時代は新しい。
石製勾玉
弥生時代・古墳時代を通じて一般的に装身具として使用された。古墳時代の初期のものは丸い弧をなし、時代の新しくなるにつれて少し角張ってコの字形をなす。この出土品の勾玉は古墳時代の初期のものである。
純金製の耳環
純金製の耳環をつけていた被葬者は古墳時代のこの地方の豪族で、高貴の地位の方であったと思われる。また出土の古墳の位置がこの地域を圧する優秀な山容である点より考えても、純金の耳環をつけるにふさわしい高貴な地位の人であったと考えられる。
孝女お加屋小伝 孝女お加屋顕彰会 |
三孝女(徳山浦石のお米・笠戸島深浦のお政・久保河内のお加屋)の一人として敬仰されている。
お加屋は天明五年(一七八五)河内村中戸原に生まれ、父は伊左衛門といい二男三女があり、お加屋はその次女でありました。伊左衛門は農業を営み貧困な生活をしていましたが、お加屋七才、伊左衛門五十四才の時、父は眼病に罹り盲目となり稼ぐこともできず、日に増し生計が困難になってわずかな家屋敷も質入れして金を借り、その日その日を送っていましたが、間もなくそれも使い果たし妻子扶養の道もなくなり、翌年夫婦相談の上、妻は三人の女の子を連れて里方に帰り、伊左衛門は長男源六を引受けて夫婦別居して露命をつなぐことになりました。
お加屋は孝養の心が厚く日々父の家を訪れて慰めました。成長するにしたがって年相当の日傭稼ぎをして食事を調えてはこれを持って行き、懇ろに取扱い、また奉公してもらった給物は両親に与え、仕事の合間には暇を乞うて父の安否を尋ね慰めましたが、姉喜和は嫁し兄源六は貧苦に迫り、父を捨てて家を出て行き、父はいよいよ手足が不自由になって益ます生活が困難になりました。
お加屋は両親の扶養を考えて縁付もせず、日傭稼ぎをして食事を得ては父の許に持ち運んで介抱しましたが、父の家は中戸原、母の家は大河内宮ケ浴で諸事思うに任せぬので、二十一才の時母親に相談して父を母の所へ引取って日夜孝養に励みました。
朝は早く起きて食事を調えて日傭稼ぎに行き、昼は帰ってまた食事を調え、夕方には湯浴をすすめ一日も怠りませんでした。妹吉(きち)も他家へ縁付きましたので、自分一身に引受けて終日終夜余念なく稼いで、遂に質入れの家屋敷を取り戻しました。このことが藩庁に知れ、徳山藩主から文政二年(一八一九)四月二十四日御褒美を賜りました。
父は八十二才母は六十六才の老令になり、父は盲目で手足もかなわず、母は生来の癪気に血の道、腹腰痛く歩行にたえにくいので父には好む酒を、母には米豆の煎物などを絶えず枕元に差置くなど行届いた孝養で文政八年(一八二五)十月二十七日再び御褒美として米一俵丁銭一貫目を賜りました。文政十一年(一八二八)(お加屋四十四才、父九十一才、母七十五才)の秋、大風で作物は不出来米価は高くなり、とりわけこの難儀の中にもよくかん苦を忍んで孝養をつくしたので、文政十二年五月六日三たび御褒美を賜わりました。天保元年(一八三〇)十二月二十六日父が、行年九十三才で死亡したので非常に悲しみ惜しみ、葬儀を終り、其の後は母へ孝養を益ます尽くしましたので、天保三年(一八三二)六月五日四度御褒美として、母存命中は毎年米一俵宛賜る栄誉を得ました。母は天保八年(一八三七)十一月三日行年八十四才で死亡、これまた難渋の中ながら葬儀も無事営みましたが、時にお加屋は五十三才でありました。
父母亡き後のお加屋は亡き父母のみ霊をなぐさめ朝夕墓参をして生前のように孝養を尽くしつつ日送りをし、文久二年(一八六二)八月五日七十八才で往生しました。法名を釈至孝禎誉信女と諡され、遺骸は西念寺狐塚墓地に葬られたのであります。上述のようにお加屋は幼時より信仰心が厚く、貧困の中を忍んで女の身で日稼ぎをしながら両親を養い、父を九十三才母を八十四才までよろずに心を用いて孝養を尽くし、後の世まで孝女と仰がれ美しい心の鏡を残したことは、尊くよろこびに堪えぬ次第であります。ここに百年忌を記念して冥福を祈り、郷土の心の鏡としたいと思います。
昭和三十六年一月
孝女お加屋顕彰会誌
八丈(はちじょう)
地下上申に
八城と申ハ、吉原の南の山高き所にて御座候然処ニ当村の内石城山、末武の鷲頭城山、徳山栄谷城山、富田建咲院の城山、富田上村城山、矢地の若山城、戸田村の湯野の城山、富海茶臼山の城山、此八ケ所の城山はるかに見え候故、八城と申たるよし申伝へ候、此山に千人塚と申、今ニ土塚御座候、往古乱勢の節戦場ニて御座候哉、刀なとのおれ中古まてハ数多有之候、此山麓故八城と申をいつの頃か書あやまり、今八条と書来たり申候事
現在、八丈よりこれらの八城を見ることは出来ない。これはむしろこの八丈の地は八つの城に囲まれ、八城の中心に位置する重要な要地であるとの意ではあるまいか。または、この地に住居を構えていた鷲頭氏の勢力範囲が八城で取り囲む地域であったのではあるまいか。
1 八丈の入口にあたるところに大門(だいもん)という古い楼門があったという。夕方になると浮浪者が集まり、ねぐらにしていたという。羅生門(らしょうもん)の映画を思い出す。鷲頭氏の氏寺広聞寺(こうもんじ)の寺の楼門であったといわれる。
(殿ケ浴 故 兼清常吉)
2 この奥に広聞寺(こうもんじ)の寺の跡があった。三ケ寺あったという。鷲頭氏が敗れたときこの寺を焼き払い逃げたという。そのとき寺の本尊、金の観音様を地下に埋めていたのを「困ったときは掘り出すがよい」と昔からいい伝えられていたので、明治のはじめ村人によって掘り出したところ、石の観音様が出たので、その観音様を八丈に祀り現在にいたっている。
(殿ケ浴 故 中村卯一)
この伝話には他に一説があって、殿ケ浴の弘中某の枕上(まくらかみ)に地蔵様が立ち、早く掘り出してくれよとのおつげがあったから掘り出したという伝えもある。(昭和通 中村春敏)
3 寺の跡には無数の五輪塔がある。護摩爐(ごまろ)もある。これは真言宗で使われた仏器で、護摩をたいていた爐である。
護摩爐の辺りに細長い無数の護摩木が埋められていた。昔の人は食事に長い箸を使っていたものだと、箸の遺物と考えていたようである。
護摩爐は現在西念寺庭にある。多数の五輪塔は白坂山の戦死者の供養塔といわれている。
(昭和通 中村春敏)
4 一年に一度は必ずこの寺跡に詣っていた人々があったという。鷲頭氏の後裔(こうえい)の人々である。小郡町より八軒、鷲頭山麓より四軒、小野村より四軒で約二十軒であった。鷲頭氏は戦に敗れたのちは改名して各地に亡命し、山間僻地に隠遁した。参詣の人は竹のがんざきをみな持って参っていたという。このことが特に記憶に残っていると語る人が多い。清掃用のためであろう。
現在山口県下に鷲頭氏を名乗る家が十数軒ある。大内義隆の菩提寺深川の大寧寺の辺りに多く、他は県下各地に散在している。それも毛利時代の末期に鷲頭氏と改名したものもある。その理由については伝わっていない。
(昭和通 宝城興仁)
5 鷲頭氏の寺跡と伝えられる土地より少しはなれた処からハジ器・古鏡が出土している。この地域は瓦土(かわらどろ)の土地である。瓦土を掘り出したとき、銅鏡、土師器が出土した。
この銅鏡について山口県埋蔵文化財センターの中村徹也先生は左のように鑑定されている。
これは宋代に淅江省湖州(こしゅう)で作られた鏡で湖州鏡という。鏡背には模様がない。素文であるが鋳出銘が二行あり、「湖州真石家、念二叔照子」と読み取れる。湖州鏡は日本には平安、鎌倉期に輸入され特に経塚などに埋納された。
経塚といえば、この地は広聞寺、鷲頭氏の氏寺の境内の地と考えられる。が、広聞寺は広大な寺であったと思われる。
この付近は瓦土が多く古い時代より土器がやかれ、最近まで瓦場(かわらば)が数軒あり、瓦土(かわらつち)として大島郡や各地に舟で輸送されていた。この地より出土した多数の土器の破片は全部埋土(うめつち)にしたようである。完全なのが一個あり西念寺に保存されている。
(八丈 清木 諒・殿ケ浴 兼清鄭輔)
6 鷲頭氏の氏寺と思われる広聞寺の寺跡に五輪塔が積み重ね無数ある。これは上の千人塚の五輪塔を集めたものと思われる。明治の始め各所の五輪塔の整理をした時、古い寺の跡等に集めたようである。五輪塔の集められている処は古い寺の跡と考えてよいと思う。
五輪塔は現職の石工屋に聞けば高さ二尺位の五輪塔は時価五十万円位かかるという。戦勝者でなければ出来ない高額である。五輪塔は戦勝者が戦敗者への怨霊思想から戦敗者への供養のために建てられたものと思う。
高額の費用は戦勝者でなければ出来ないであろうし、戦敗者はむしろ人名をかくし隠遁の生活をしていた時代である。五輪塔にはほとんど刻銘がない。建立者の氏名・年月日は刻されていない。ただ時に梵字、蓮華が刻されているのもある。これも死者へのただ供養の念からとみられる。
この岡の上に旗岡千人塚の地名がある。地下上申に
この山は久保村と下松村に跨り今は拓きて段々畑とす、千人塚といふあり恐らくは此観応の古戦場にて高鹿垣の戦争に関聯せる戦死者の墳なるへし、旗岡山の名亦戦争によりて名つけたる歟
或は畑岡の義なる歟亦考ふへし
と書かれてある。千人塚には今は五輪塔が四、五基あるにすぎない。ここの五輪塔の大部分は下の広聞寺跡に移されたものと思う。
7 奥の山についての伝説がある。白坂山との戦のとき、奥の山で白米を流し水の流れに見せ、飲用水に困っていないことを知らせたという伝説である。また山に馬に似た石(のりくら石という)に武装させ、敵をあざむいたという話も残っている。こうした石の伝説は各地に残っているが、白坂山の戦は大内・鷲頭氏の興亡をかけての激戦であったので、こうした伝説も出来たものと思う。
8 この八丈部落には部落がはじまって以来地神申(じしんもうし)が現在まで毎年行われ、また百二十数年間の記録が今に伝わっている。申しの当日の行事の記録、経費、参加人名、重要な年間の行事等が記録されている。八丈部落の団結にはこうした長い伝統に根づいていることを知るのである。
殿ケ浴
殿ケ浴の地名は殿の住んでいた浴の意である。殿とは豪族、領主等の尊称である。浴とは谷間、小谷の意である。殿ケ浴とは殿にあたる鷲頭氏の住んでいた浴の意である。
1 殿ケ浴の上の岡を鷲頭氏の住居跡といっている。明治のはじめ部落民によって掘られた地下四、五米のところに大きな巨石があり、掘り出すことが出来なかったので再び埋めたというが、鷲頭氏住居跡の敷石であったといっている。
(殿ケ浴 故 兼清廉助)
2 この近くの森を天王森という。詳しくは祇園牛頭天王社という。祇園社は大内氏の氏神である。
大内氏が吉敷郡大内村(現山口市)から山口に移った時、京都の八坂社(祇園社)を山口に分祀したというが、鷲頭氏も殿ケ浴に住居するに当たり祇園社を氏神として館の上に分祀したものと思う。
昔の豪族はみな邸内に氏神と氏寺を祀っていた。鷲頭氏は氏神は祇園社で氏寺は八丈の広聞寺である。
(殿ケ浴 故 兼清常吉)
3 住居跡の横に膳部(炊事場)があったといわれている。その奥に堤があって夏には瓜など食べ物を冷やしていたので、うりふ堤といい堤より流れる小川をうりふ川と現在もいっている。膳部には領内各地よりの献上品を納められていたので、大きな蔵があったといわれている。
(昭和通 故 兼清廉助)
4 この辺が鷲頭氏の武家屋敷で武家の住居跡であったといわれている。地下上申に「殿ケ浴付近は大内氏(鷲頭氏)の武家屋敷であったとつたえられる。厠と家を別々にもうけ家のまわりを大きな石垣で築きとても豪勢であった」とつたえられている。
また上申には「殿ケ浴はもと殿ケ迫といっていたが、当時の城郭によって殿ケ浴という名が残った。」と記されている。
(殿ケ浴 故 兼清廉助)
5 この鷲頭氏住居跡、武家屋敷の横に東豊井村より通ずる道がある。道のそばに井戸があった(現在は自動車道になっている)この井戸が西豊井の地名のおこりで、東豊井の地名は宮の洲の井戸が東豊井の地名の起りといわれている。
(殿ケ浴 故 兼清廉助)
6 殿ケ浴は八丈部落の隣りであるが、ここまで海であって切戸川の川口、青柳浦より舟で上っていたといわれている。このことは地形よりもわかる。殿ケ浴の中を通っている道は弓なりになっているが、これは波うちぎわの形をあらわしている。
またそれにそって河原の家号のある家もある。道にそい宝蔵(ほうぞう)の地名があるが、昔、寺の宝物や経典の蔵があったといわれている。
(殿ケ浴 故 兼清常吉)
7 八口・八城・殿ケ浴といつも三部落を一緒に昔よりいっているが、いろいろの点で深い関係がある。この三部落は切戸川によって田地が灌漑されている点は、三部落全体の融和の点で大きな影響を与えている。河川の修理、河水の田地への配分等にしばしば部落民が会合し協議していた。当屋(とうや)の門(かど)に蓆(むしろ)を敷き部落の人々が会合し酒宴を開いていた昔のさまが偲ばれる。
鷲頭氏史より抜粋 (長門市郷土文化研究会著) |
1 周防の国侍の官人として永年周防国に勢力を扶殖して来た大内氏は、一族の棟領として守護大名に成長したのである。それにしても一族の鷲頭氏と大内宗家との確執の根は深く延々百年の長きにわたった。白坂山での戦は大内・鷲頭対決の一戦だった。
2 鷲頭長弘がこのように宗家を圧する勢力を有しながら、この時まで宗家を討たず支流に甘んじたのは、長弘の人柄によるといわれている。この誠実温和な気質は本拠地下松の恵まれた明るい風土に因るものかどうかは知らないが、後、鷲頭弘忠が深川において最後を遂げるまでこの家に一貫したよき資質であった。
このように著者は下松の風土をほめ、鷲頭家の家柄をたたえている。