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3 下松地名考

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 下松の地名の起源については、尊星降臨の伝説による降松の説と、百済人の渡来説による百済津の説がある。この両説は共に確実な史料がない時代のこととて、どちらをとるかはなかなかむつかしい問題で、やはり、諸般の歴史的事項が究明され、最後に論ぜられる問題であろうと思う。今はこのことにはふれないで、下松の地名について考えたことを述べてみよう。
 下松という地名は、現存している確実な史料の上にいつ頃から表れているのであろうか。足利時代の武将として、また歌学者として有名な今川貞世(一三二四―一四二〇)の紀行文『道ゆきぶり』の十一月十三日の条に、貞世が長門の住吉神社に詣で、歌をよみ、住吉大明神の霊験をたたえたところに
此歌のこゝろは、今年九月に豊後の高崎の城より、宗久といふ僧此方にわたり侍らんとて、舟にのりはべりながら、順風なかりける夜の夢に、よはひ八十ばかりの翁の、かみひげ白きが、ゑぼしに浄衣きたる一人出来て、左の袖をひろげて、これに乗て舟出せよといひて、袖をうちふり給ひければ、をひ風吹てこなたにわたりぬとおぼえけるを、夢心地に住吉の大明神よと思ひてさめ侍るに、やがて其暁風よくなりぬとて舟いでて、日のうちに周防のくた松といふところにつきぬとかたられし事を、ふと思ひ出て侍りしほどに、この歌もその心をかたけてよめるなり云々
これは貞世(了俊)が、鎮西探題として九州に下向したときの建徳二年(一三七一)の紀行文であるが、これが「くた松」の初見であろう。今から五八七年前のことである。
 同じく今川貞世の『鹿苑院殿厳島詣日記』の三月十二日の条に
あひの浦すぎて、むろづみと云所に至ぬ、むかし生身の文殊のみかほ拝まむと誓ひける人につげ有て、これこそ生身の文殊よとて、此所の遊女ををしへける所ぞかし、所のさままことに面白し、岩ほ高くきりしきて、そびえたる峯三四ならびつゝ、松柏むろなどいふ深山木、苔おひさがりて、うき雲うすくかゝれり、此山のひんがしにしの脇に舟の泊あり、その西北に、なぎさにそひて松原ひとすぢ霞につづきて、白浜も浪もひとつにみゆ、にゐの湊こぎ過て、くだ松といふとまりにつかせ給ふ、大内左京大夫はこゝにぞ参りためる、御旅のかれ飯みきなどさまざままいる
あま乙女しづはたをらぬくだ松も 浪の白糸よりやかく覧
 これは康応元年(一三八九)に、足利義満(鹿苑院殿)が、一行百余艘を率い海路厳島に詣で、更に九州に遊ばんとした時の日記を貞世が記したもので、今より五六九年前のことである。
 前の『道ゆきぶり』の記事より十八年後である。
 『道ゆきぶり』の記事より二十三年前、貞和四年(一三四八)に次のような事件があった。それは『日向記』に記載されてある「祐持逝去祐凞押領並防州にて溺死事」で、その一部を掲げると
去間祐重京都の栖も誠に物憂く暮させ玉ひけるに、祐凞は思ひの儘に押領し貞和四年戊子八月、祐凞日向下向の時、周防国くたまつの沖にして、悪風俄に吹来て、御船忽にくつかへり失玉ふ非分の行跡、天是を赦し玉はさるか、因果歴然の道理不踵事共也、此時曩祖祐経千葉殿より相伝の妙見の鏑矢も海中に入て失けるとなん
この『日向記』は、日向伊東家の記録を天正十八年(一五八〇)に編集したものであるが、史料としては正確とはいえないので、『道ゆきぶり』の記事を「くた松」の初見とするのが妥当と思う。
 前述の三書はそれぞれ「くた松・くだ松・くたまつ」と書いていることに注意しておこう。
 漢字で「下松」と書かれているのは、これより約百年後の文明十年(一四七八)のことで『正任記』に
  十月三日、自防州下松霊松寺、巻数並餅抹茶菓子等進上之、被成御書了
これが、「下松」の初見ではないかと思う。今より四八〇年前である。『正任記』とは、応仁の乱後大内政弘が防長芸石の諸将を帥いて豊前筑前を従え博多に鎮守中、枢機に与る老臣相良正任の日録である。また周防国一宮、玉祖神社文書文明十一年(一四七九)十二月八日の条の「御神用米在所注文事」には「下松出作一町分米二石」と書かれている。
 以後、下松の地名はしばしば見られるところであるが、いずれも下松と書かれているのである。
 下松はもと降松と書かれていたが、のちに下松と書くようになったという説があり、『風土注進案』末武下村の条にも
下松と申は往昔青柳浦と申候由、古松三本有之、一本を金輪松と申、一本を怒龍松と申シ、又一本を鼎松と申候、右之内ニ金輪松は妙見星此松え天降在しより降松と浦名を申伝へ、降といふ字を下松と書違候由申伝へ候
と言い伝えているが、そうした事実はないと思う。下松郷土史の古事記ともいうべき『鷲頭山旧記』をみるに、先ず尊星降臨之松の由来を説き、ついで
  仍而改青柳浦名降松
と書かれている。この旧記は奥書によると天正三年(一五七五)に書かれたもので、年代も下り、今から三八三年前である。
 これが降松の語の初見である。しかも降松の字にクタマツと仮名がつけてあることは注意すべきことであろう。今一つは砲術天山流の開祖坂本天山(一七四五―一八〇三)の詩がある。
     降松
  試歩降松里 萩城三日程 人煙連駅起 官道傍汀平 遂罷浮舟計 偏随陸踏行 魚塩閨郷富 質樸土人情
 ここには降松の語がつかってあるが、これは漢詩のため韻の関係からとも考えられる。明治以前では、降松の語は『鷲頭山旧記』とこの漢詩以外には殆ど見当たらないように思う。
 明治の初め神仏分離が行われ、徳山藩史によれば、明治三年九月七日妙見社号成とあって、妙見社は降松神社と改められ現在にいたっている。この降松神社の字には特にクタマツと振仮名がつけられている。これも、降松の字が従来用いられていなかったことを証するものではあるまいか。
 次に当時、下松と称せられた地域はどこであったのであろうか。厳密にいえば明治三十四年豊井村が下松町と改称するまでは、下松とは東は二宮町(二軒屋)より、西は西市にいたる町筋とその海面下松浦をいっていたのである。
 豊井村は、明治二十二年市町村制により東豊井村・西豊井村が合併して豊井村になった。東豊井村・西豊井村は、昔にさかのぼれば豊井村・豊井保・豊井郷といわれ、更にその上に鷲頭庄があった。このことはこの地方を治め周防国一円に勢力を振るい、現在の市内昭和通(八丈殿ケ浴)に居をしめていたと思われる鷲頭氏(大内氏)について述べなければならないが、後日に譲りたい。
 このように厳密には下松とは、下松の町筋と下松の浦をさしていたのであるが、またその近傍をも下松といっていたことは、古記録にしばしば見られるところである。
 しかし、この一本筋の下松の町も、新町以東は東豊井村に、中島町までは西豊井村に、西市は末武下村に属していた。また東豊井村・西豊井村は徳山藩領、末武下村は萩藩領であった。
 このことから考えると、このように下松が各村に分かれていたことは、一方からいえば、このように分かれる以前に、すでに下松の地名はあったと考えられ、ここにも下松の地名の起源についての問題があると思う。
 下松の古いことを調べるには、『地下上申』『風土注進案』『御領内町内目安』がある。ことに『町内目安』は、町の長さ・道幅・戸数・人口・職業・租税・社寺等詳しく記している。今回は町名の起りについて述べよう。
 町名については、前述の史料のほかに、各寺院にある過去帳がまた重要な史料である。
 過去帳には門徒の死亡年月日・戒名・俗名・住所が書かれ、特別な事情のある者は特にそのことが記されている。これらの史料よりみると、下松の町は中市を中心として東に東市、西に西市ができたと考えられる。ついで浦町ができた。過去帳での浦町の初見は、天和二年(一六八二)である。浦町の初めは、浜とか東浜といわれていたようである。
 新町とは新興の都市といった意味で、従来の東中西市に対したもので、町並みも東市以西の町とは別箇にできた町と考えられる。新町の初見は貞享四年(一六八七)である。ついで中市と西市の間に中川原町ができた。これは、御領内町方目安に正徳二年(一七一二)と書かれているから、今から二四六年前のことである。この川原町について『地下上申』東豊井村の条に
右小村之内中川原市と申候儀、東西ニ川有之、中ニ狹波市有之ニ付中河原町と申伝候事、尤往還北かわ計ニて御座候、南の片かわは西豊井村之内より仕出申候事
とあり、また、古地図にも町筋の北側は東豊井、南側は西豊井に属するように書かれている。
 これは新しい土地ができ、その所属争のはて、半分ずつに分けたと考えられるが、一考すべきことである。
 東市はのち東町・本町と分かれる。過去帳での東町の初見が天明四年(一七八四)で、本町の初見が享保三年(一八〇三)であるので、この頃に東町・本町に分かれたのであろう。
 新町は現在の新町以東をいっていたが、戸数が増し発展するにしたがい、室町・松ケ崎・八軒屋・二軒屋と分かれるにいたった。
 ことに室町・松ケ崎が、時々新町室町・新町松ケ崎と書かれてあることは、町の分かれてゆく過程を知る上に興味あることである。
(昭三三・一、第三輯)