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4 下松の海岸地帯の変遷について(開作の歴史)

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 古来よりの下松の海岸地帯の変遷について調べる考えであったが、今回は近世の主に開作について述べることにした。これも十分な史料が見当たらないので、今後の研究にまつところが多いが、一応まとめた次第である。
 近世に開作されたのは、標高二米以下の地であって、二米の等高線をたどると、近世に築造された開作の境界線になるように考えられる。標高五米以下二米までの地は、有史時代以後に開作されたと考えられるが、その年代等については後日の研究に譲りたい。
 これは余談になるが、しおりが峠(たお)は、往古はあの地まで海であったので、塩入峠であろう。これに関連して、その辺りで塩を売っていたので塩売峠であるように巷間でいっているが、しおりが峠は標高四十五米余りあり、この等高線をたどると古墳群を有するお屋敷山も海に没する高さであって、海であった時代があったとしても、それは有史時代以前に属するものである。しおりが峠は枝折峠の意味であろう。
 近世の文献にあらわれている開作を西よりあげると、平田開作がある。
 吉敷毛利家譜録の貞享四年(一六八七)六月廿八日の条に
長州厚狭郡須恵村ノ干瀉妻崎ヨリ藤曲際波迄ノ間ニ百町余、防州都野郡平田香力ニテ五十町余、併セテ二百五十町余ノ新田ヲ賜ルベキ旨当役連署ノ証拠物有之
このように大海丁の道路より南を吉敷毛利家が給領され、これを開作されたのである。元禄元年(一六八八)に着工し元禄二年(一六八九)に竣工したといわれている。
 この開作の沖に鶴ケ浜一ノ桝開作と鶴ケ浜二ノ桝開作が、毛利家の永代家老須佐の益田家によって築造された。一ノ桝開作は天保九年(一八三八)、二ノ桝開作は文政八年(一八二五)に開作されたという。
 一ノ桝開作は須佐開作ともいい、開作の一隅に
  益田御領御開作 坪郷大明神 天保九戊戌十月八日
と刻まれた石の祠(ほこら)がある。これはこの開作に功労のあった、恐らくは身命をなげうって力を尽した益田家の家臣坪郷氏のために建てられたのであろう。天保九年(一八三八)十月八日は、開作竣工の日を刻んだものと思う。
 元文五年(一七四〇)六月に図した末武村地下図には、一ノ桝・二ノ桝の地図は記載されず、別紙に図して付箋紙してある。一ノ桝の付箋紙に
  須佐開作天保四巳年(一八三三)新開ニテ石盛不相成
と記されている。開作年代について諸書により異同があるが、これは
 (一) 着工年と竣工年とのちがい、また石盛の年がちがうので、開作の年代をどの年にするかによって相違する。
 (二) 最初竣工した開作が堤防の決潰等により失敗し、二度目の竣工があった場合。
 (三) 一度に開作したのでなく、区分して開作した場合等。
右のような理由によると思われる。
 また、開作の名称についても、開作者の氏名、開作地の地名、開作所有者の異動等により、同一の開作に異なる名称があることに注意すべきである。
 ついで西市沖の開作については、前述の末武村地下図(ちげず)によると、西市沖に「御開作」と記され、更にその沖にあたるところに付箋して「塩浜四丁」として開作が図示されてある。
 『風土注進案』によると、西市沖は「宍戸伊勢様御開作」と記してある。この地下図の御開作は、元文五年(一七四〇)以前に宍戸伊勢によって開作されたものと思う。
 御開作の沖の開作は、三井村の山本庄平によって天明年間に開作され、山本開作といわれているのである。
 開作の東堤に
  天明七歳(一七八七)十一月吉日 住吉明神 龍神宮 祗園大王
と刻まれた石の祠がある。天明七年竣工の際建てられたものと思う。
 『大下松大観』には
西市沖の開作は『風土注進案』には宍戸伊勢様の御開作とあるけれど、実は熊毛郡三井村の山本庄平が宍戸伊勢の名儀を借り、安永から天明に至る間に、倭屋源右衛門などと云へる人人と共同苦心開作したものであることが、大海丁倭屋藤井某所蔵の記録によるも明かで、普通に之を山本開作と称へている
と記している。このことについては後日の研究に譲りたい。
 中島町沖の開作については『徳山藩記』に
安永七年(一七七八)戊戌、西豊井村中河原開作築立、畠一丁五反四畝十六歩築立、御本家領徳地ノ清七、同中河原塩田開作一丁八反一畝十歩、畠六反廿二歩、築立主末武村入作ノ喜左衛門
と記している。西堤に
  安永七戊戌二月八日 常夜燈 願主下村喜左衛門
と刻まれた石燈が石祠の前に立てられている。喜左衛門の開作は徳地ノ清七の開作の沖にある塩田である。
 元文年間頃にできた豊井村地下図によれば、中島町沖に畠開作として地図に載っているが、これは安永七年の開作とは年代が違うことになり、研究を要する問題である。
 ついで高洲沖の開作については『徳山藩記』に
明和四年(一七六七)丁亥五月、西豊井村高洲開作、石盛田三丁六畝十歩畠四反八畝十五歩、後安永三年(一七七四)甲午十一月十日水不如意ニ付、依願塩浜地ニ成築立主、末武村重次郎
と記されている。
 山口県文書館所蔵の記録「開作御証拠物控 開作畝反窮書抜」には
 下松町太郎右衛門新開作石掛御証拠物
一田畠数三町六畝十歩
   内
  田数二町五反七畝二十五歩
   ……………
  畠数四反八畝十五歩
   ……………
右去ル宝暦五(一七五五)亥歳、末武百姓太郎右衛門と申者、下松浦え開作築之御免被仰付被下候ハヽ、自力を以築仕度由御願申出、其節御役人中御見分之上、築立之儀如願被指免築調、翌子ノ歳より十ニケ年之間鍬下御免被仰付、明和五(一七六八)子ノ年より御物成被召上候……………尤此開作土手其外破損有之節ハ、御上ヨリ御構不被仰付、作人自力ヲ以相調可申候、依之此開作土手ニ出来申草木自由ニ伐取被仰付候、且亦此開作西之方本川辺り土手、外ニ作人より植置候松之儀は自由ニ伐取不被仰付、下擢或は真木採用等之節ハ願出候上被差免、尤御用之節ハ被召上候通廉々納得之上御請申上候所如件
 明和四亥年(一七六七)五月
末武村入作百姓  
太郎右衛門

 この太郎右衛門新開作は、『徳山藩記』の高洲開作に当たると考えるのである。
 藩記に築立主末武村重次郎とあるのは、安永三年(一七七四)塩浜にした人をいうものと思う。藩記は石盛について田三丁六畝十歩とし、控は田畠数三丁六畝十歩としているが、これは藩記が田畠の畠の字を書き落したと考えられる。控に「此開作西之方本川辺土手」とあるが、この本川は切戸川をさしていると思う。他にはこうした開作は考えられないのである。末武村太郎右衛門が開作し、重次郎が塩田にしたのであろう。重次郎と太郎右衛門との関係は不明である。
 またこの記録によって、開作の土手(どて)の管理についても知ることができる。
 ついで大小路沖の開作については『徳山藩記』に
 安永二年(一七七三)癸巳三月、西豊井村大小路浦開作築立、塩田二丁二反五畝二十七歩、畠五反一畝一歩、築立主柳ノ清右衛門
と記されている。
 現在の郵便局裏一帯の開作について『徳山藩記』には
安永元年(一七七二)下松浦え開作築立、田二丁二段五畝二十七歩、畠五反一畝八歩、天明元年(一七八一)辛丑八月石盛成、築立主下松町銭屋好右衛門
と記されている。前述の「開作御証拠物控」には
 下松浦田右衛門開作
一田畠数二町八反一歩
 ……………
  内
  二畝二十六歩
  右龍神社地畝石御除之分
右去ル明和九辰年(一七七二)下松町銭屋好右衛門と申もの、下松浦え開作築立御免被仰付被下ハヽ、自力ヲ以築立仕度由御願申出、其節御役人中御見分之上、築立如願被差免…………
と記されている。
 前述の「太郎右衛門新開作」及び「田右衛門開作」に書かれている下松浦の名によって、当時どの辺りを下松浦と呼んでいたかを知ることができることは、非常に興味深いことである。
その東の新崎開作について『徳山藩記』は
 文化二年(一八〇五)乙丑下松新崎開作築立、塩田三丁一畝二十七歩、石盛成、築立主磯部好助
と記している。
 小島開作は小島興左衛門が慶応元年(明治初年の説もあり)に着手したが失敗し、竣工せず中止していたのを磯部氏が完成したという。塩田九丁八反なり。
 小島開作以東の開作は、すべて磯部氏が築造したものである。周防の三部といわれていた磯部氏の繁栄が偲ばれるのである。『徳山藩記』により磯部開作の築造を年代順にあげよう。
 元禄三年(一六九〇)庚午三月十三日磯部好助、先年築立開作石盛成田一町七畝二十歩、畠五反三畝
この開作は産業道路より以北に築造された開作である。前述の「開作御証拠物控 開作畝反窮書抜」によると
   東豊井村磯部好助開作畝石御窮帳写
  田畠一町六反二十歩
   内 五反三畝畠
    一町七畝廿歩田方
   ……………
  右磯部好助新開作現田畠之分元禄三年(一六九〇)午ノ年より御所務被召上候
  外ニ
   八畝廿歩
    但東南之角荒所有之
   三畝十六歩
    但田畠之境土手北南五十三間、幅二間之土手有之
   二反四畝七歩
    但南東角ニ潮廻之所三十一間半ニ三十二間半之所有之
   八畝二十歩
    但西方土手下ニ溝北南六十五間、幅四間之所有之
   ……………
  計九反一畝九歩
   右之開作内ニ土手之所潮舞四方土手下ニ溝有分共ニ、現田畠之外右地有之
   ……………
これによって開作地の地形が大略推測できよう。潮廻・潮舞は、遊水池のことである。
 ついで『徳山藩記』によれば
元禄十六年(一七〇三)癸未三月廿日東豊井村宮洲開作築立、田三丁四反四畝十六歩、畠二丁十歩、塩浜地十二町一反一畝二十五歩、築立主磯部好助
この開作は磯部家裏門の正面にあって、磯部家の最も広い塩田であった。
 ついで『徳山藩記』によれば
  享和二年(一八〇二)壬戌十月廿一日宮ノ洲開発、畠七丁七反九畝二歩半、開立主磯部好助
とある。これは開作でなくて開発と書かれ、また開作の場合は築立主であったが、この場合は開立主としてある。宮ノ洲の林野を開拓したのである。
 この享和二年の開発地に有名な宮洲古墳があり、古鏡が発掘されたのである。これについては「宮洲開発地石室覚 磯部際右衛門」の記録が山口県文書舘に所蔵されている。抄出すれば
(一) 享和二年(一八〇二)八月廿一日畠地追々開立仕候処、凸之土地御座候故地平シ仕掛ケ候処、石垣掘出シ申候、其内ニ鏡刀類御座候ニ付其段幸吉より御届申上候
(一) 八月廿七日左之通御沙汰御座候
 下松町二軒屋之新助と申者、鏡拾ヒ候分御自分え相渡候様御沙汰相成候間、彼之者より引渡候ハヽ先達て之届出鏡三枚同様取始末可有之候、為此申達候以上
   八月廿七日
                                      井上彦平
  宮洲屋幸吉殿
(一) 九月七日黒神上総申請一応之祭事仕候、今日埴常社と神号附キ申候
(一) 十一月二日黒神上総申請鏡刀類石櫃え入石室中え奉相納候
(一) 十二月廿七日左之通御沙汰被仰附候
     覚                             東豊井村
                                     宮洲屋幸吉
右宮洲山之内、身柄依願当秋地面開発候中掘出候石室、幷ニ其中ニ有之候鏡諸器見分吟味相成候所、器物類尋常ならす惣て其様子全高貴之墳墓ニ相見候間、伺之上器物諸品室中え相納故、之ことく土地封修いたし一応之祭事取行ひ、此上右之場所え小祠建立後来神祭仕度趣、尚又伺出候ニ付建立被仰付、格別之御思召を以為建立料白銀十枚御寄附被成候条、相応之建方可仕、尚神祠地面御除幷為祭事料開発地之内、少々之石除御附被成候、地面持主永々引請遂其支配、祭祀祀方相懈申間敷候、尤右建立方惣圍志つらいまて役所向相伺可受指図、左候て後年之修復等御構は不被仰付旁可相心得候事
右は原文の一部を抄出したのである。当時においては、古墳が如何に丁重に取扱われていたか知ることができよう。
 この時発掘の古鏡四面は、考古学上極めて貴重なもので、梅原末治博士は大正十年(一九二一)六月に『歴史地理』誌上に「周防国都濃郡下松町宮洲発見の古鏡」と題し発表しておられる。
 梅原博士はこの四面の古鏡は形式より王氏作盤龍鏡・半円方形帯神獣鏡・獣帯紋神獣鏡・内行花紋鏡と命名し、それにつき詳しく述べておられる。特に王氏作盤龍鏡については、「文様の表現の極めて鮮明鋭利なること、我が古墳出土の古鏡中稀に見る処なり」といわれ、最後に
周防の地において、此の如き優秀なる古鏡を発見せるの一事は、上代この種遺品の分布の上に特筆すべく、さきに報告せし玖珂郡柳井津の茶臼塚及び近く改めて紹介すべき都濃郡富田村之内竹島発見の古墳と共に、上代周防の開化を徴する重要なる遺跡というべきなり。
と述べておられる。下松の誇るべき古代文化を物語る貴重な文化財である。この古鏡は、現在は東京国立博物館に蔵せられている。
 ついで『徳山藩記』には
享和三年(一八〇三)癸亥六月廿四日、東豊井村宮ノ洲御立山之内、洲屋明神社地境鳥井松より東鯉ケ浜人家前通り迄之間、松伐払開発、畠七丁六反四畝二十三歩、開立主磯部好助
文化元年(一八〇四)甲子三月、下松宮浦開作築立塩田三丁一反五畝一歩石盛成、築立主磯部好助
と記されている。
 以上を以て、近世の下松の海岸地帯の開作、開発については全部述べ終った。
 なお、これ以前の開作について、特に旧下松町区域について二三述べてみたい。
 下松の市街地は、東は二宮町から西は西市にいたるまで、きれいな海の砂地であることは、しばしば道が掘りかえされるとき見るところである。これは潮流の関係によるといわれているが、この砂浜の裏側は、古い時代はまだ海水も入り込み低湿地であったと考えられる。先年も高潮のとき、下松駅裏まで海水が浸入してきたのである。この低湿地帯に、古い時代に開作が行われたと考えられる。
 駅裏の鼎神社のあたりにかけて、丸堤・神田堤・内堤・堤田・外堤など堤(どて)のつく地名が多いのは、開作の「どて」からきたもので、当時は堤は開作の意に考えられていたのであろう。
 『東大寺文書』の「国衙領目録」の断簡に
  鷲頭出作保、田数十町九段三百四十歩、目録高七十石三斗六舛二合
とある。出作(でさく)とは開作地のことで、鷲頭出作保とは鷲頭庄の開作された国衙領をさしているのである。
 『玉祖神社文書』文明十一年(一四七九)十二月八日の「御神用米在所注文」には下松出作とあって、鷲頭出作が下松出作とかわっている。当時の下松は今の下松の市街地をさしていたので、下松の開作といえば駅裏の開作をさし、これは神田堤の開作のことをいったのではあるまいか。
 こうして駅裏一帯の開作が完成したとき、下松の町も形成され、ついで、新町以東にも新しい町ができたと思われる。豊井村が東西両豊井村に分かれたのも、東部地域が開作によって土地が造成され豊井地域も広まったためと考えるのである。
 末武川の河口にある鶴ケ浜一ノ桝・二ノ桝開作をみるたびに、この開作工事にしても現在の温見ダム工事に比肩し得る大土木事業であると考えられ、昔の人々の労苦が偲ばれるのである。海岸地帯に連なる大小の工場を眺めるとき、これらの工場はいずれも昔の開作地に建てられているが、我々は先祖の遺産に感謝し、下松の工業都市としての発展をよろこばねばならない。
 昔の人々がこうした大工事を遂行するに当たっては、常に神仏の加護を祈り、加護を信じていたのである。開作工事を着手するには鍬初行事を行い、工事中には風鎮行事及び祈禱、竣工には潮止め神事があった。そうして鍬初行事に勧請した神を潮止めの神事にも祀り、工事完成後にはその開作の守護神とし、またこの開作に人家ができて人々が住み、聚落が起れば開作部落の鎮守の神として祀ったのである。
 下松の各開作に祀られていた神々について記そう。
 鶴ケ浜一ノ桝開作には坪郷大明神、東開作には竜神宮、西開作には祇園社、その沖の塩田には塩竃社、西市沖開作には住吉明神・竜神宮・祇園大王、中河原沖開作には弁才天、下松浦開作には竜神宮、小島開作には弁才天(現在は二宮町に祀る)、磯部開作には竜神宮・弁才天社がある。磯部家は特に弁才天を崇拝し、磯部家の守護神としていた。
 これらの神々はいずれも水や海、塩田に関係した神である。祇園社は土地を守護し病気を防ぐ神とされているが、西開作の祇園社も疫病がおこった際に創建されたといわれている。
(昭三八・三、第八輯)