『鷲頭山旧記』によれば、北辰尊星は現在の金輪神社のところに降臨し、ついで桂木山(宮洲山)に祀り、ついで高鹿垣山(恋浜の上)に移し、ついで現在の鷲頭山(妙見山)に移したとある。高鹿垣山に祀ってあったとき、神威かがやき、沖をゆく舟は進むことができなかったため、鷲頭山に移したといわれている。
こうした記事は、『播磨風土記』等にもあって、各地に伝わっていることであるが、これは当時その地域の海上に雄飛していた豪族が、勢を振るっていたことをあらわしているのである。この場合も、北辰尊星を祀り氏神としていた驚頭氏が、この海域の海上権を握り、勢力を振るっていたことをあらわしていたものと思う。高鹿垣山・鷲頭山は、いずれも瀬戸内海の海上を監視することができ、また陸上における要害の地である。尊星を祀る社が、桂木山・高鹿垣山・鷲頭山と次第に高地に祭神を移したことは、鷲頭氏の勢力範囲が次第に拡大していったことをあらわしている。鷲頭氏がこの鷲頭庄のわずかな領有地で、後には周防一円に勢力を振るうことができたのは、海上における交易等の利に因るところと思う。
周防守護職となり鷲頭家の全盛時代をつくった鷲頭長弘は、のちに足利尊氏に従い、延元元年(一三三六)二月長門の厚東武実と兵船五百隻を率いて尊氏を兵庫に援けている。これによっても当時の長弘の持つ水軍力を知ることができよう。尊氏の軍はこの戦に敗れ、尊氏は九州に奔り再挙をはかり、延元元年四月再び軍勢をととのえ京都に攻め上った。『南方紀伝』によれば
延元元年(一三五六)四月二十六日尊氏攻上、周防国笠戸浦着陣
このように、尊氏の大船団が笠戸浦に着陣したことも下松の地が長弘の本拠であり、長弘の水軍の根拠地であったためと考えられる。なお、五月(旧暦四月)より九月にかけては東風が吹く季節であるが、笠戸浦は特に東風には無条件によい港であるため、下松より笠戸浦をえらんだと考えられる。
『増補周防記』によれば船司職の項に四国河野氏の家系を述べた記事に
建武三年(一三三六)源尊氏従筑紫上洛之時、河野通治海上之先陣兵庫湊川合戦ニ楠正成ヲ討、応仁乱擾ニ大内ニ順大物浦水軍勝利、永正五年(一五〇八)義稙将軍上洛先陣先例海上之先陣也、然ニ河野大内ト一家ノ由緒ハ、河野四郎通信実ハ大内介二男為二猶子一、河野隼人正通又大内介弘家子也、河野六郎通之又大内政弘子也、如斯三代家督ニ依テ、大内家河野家両氏交二家系一、因河野氏ニ北辰尊星供竜神供ヲ行事是謂也
この原本の『増補周防記』は、玉石混淆して正確な史料とは言い難い。また、この大内・河野両氏の関係の記事も、事実とは認められない。これは河野某家が、自分の家系を粉飾するために作ったものであろう。しかし、この記事によれば鷲頭長弘は河野正通と兄弟であることになるが、長弘の強大な水軍力の一因も、西海の豪族との提携によったことを、この記事は示していると考えてもよかろう。
大内氏の宗家たる大内弘世は、正平五年(一三五〇)官軍に帰順したため、北朝方の長弘と争うにいたった。のち長弘の死後、子弘直は大内弘世のため白坂山戦、高鹿垣戦で破れた。
ついで大内弘世は周防を一統し、その後宗家の大内時代となった。鷲頭氏にかわった大内氏時代における下松の水軍については、何等の記録もない。ただ『鹿苑院殿巌島詣記』に、足利義満の西下の時の記事に
にゐの湊こぎ過て、くだ松といふとまりにつかせ給ふ、大内左京大夫はここにぞ参りためる、御旅のかれ飯みきなどさまざままいる
あま乙女しづはたをらぬくだ松も
浪の白糸よりやかく覧
これは水軍とはなんら関係ないが、下松の港に義満の数十艘の船が来泊したことは注目すべきことと思う。前夜は神代に泊り、翌十三日の夜は三田尻に宿泊しているが、下松に泊り、また大内義弘が下松まで出迎えていることなどより考えると、下松が良港として、また大内氏との深い関係によるためと思われる。
大内氏にかわり毛利氏の時代になるが、元来毛利氏は安芸の吉田にいたので、海とは関係がなかった。天文十年(一五四一)五月に広島佐伯郡金山城を攻め、武田氏を滅ぼしてより初めて海に通じ、その地の豪族をしたがえ、児玉就方に統率させたのが毛利家水軍の濫觴といわれている。その後、毛利氏は次第に勢を得て防長を席巻し、弘治二年(一五五六)四月十九日降松妙見社の営も陥り、下松は毛利氏の領有に帰したのである。
『毛利氏四代実録』によると「天正十三年(一五八五)四月二十五日」の条に
今度我軍羽柴氏ノ兵ト共ニ四国ニ発向ノ期日五月二日ニ定ラル、依テ防州下松船遅滞ナク出帆ノ事ヲナスヘキ旨児玉豊前守ニ仰ス
とあり。一本には下松船に注して
下松船 下松ハ防州都濃郡ニテ軍艦常繋ノ津ナルヘシ
と記されている。これによって、下松港が毛利氏水軍の根拠地であったことが知られる。天正十三年(一五八五)は、下松が毛利氏により領治されるようになった弘治二年(一五五六)より二十九年後であって、当時輝元は広島に築城し中国十ケ国を治めていた時代である。この軍艦常繋の下松の港というのは、恐らく鷲頭氏・大内氏時代に使用されていたところであり、鷲頭氏水軍の軍事的施設も利用されたものと思う。
前記の『毛利氏四代実録』の「慶長元年(一五九六)九月九日」の条には
沿海ノ令条十二事ヲ作リ、今日堅田兵部少輔元慶ニ命セラル
其一ニ曰、沿海諸浦ノ地子銭、悉ク舟師ノ兵賦ニ充ヨ
其二ニ曰、鷁舟(ゴザフネ)四艘及舴舟(コフネ)其他、広島・降松・赤間関等ニ在ル所官船ノ用ニ供スル水手千人ヲ定ムヘシ
其三ニ曰、縁海ノ民、戸浦ノ前後ニ在ル者、農ト漁ト其居ヲ易ヘシ、塩戸亦然リ
其四ニ曰、サキノ其事ニ幹タリシ ニ右衛門尉カ命セシ時ノ如ク、玖珂・熊毛・都濃・佐波四郡其他ノ近郷カヅラ藁竹等、令スルニ随テコレヲ供セシメヨ
其五ニ曰、朽敗シテ用ニ堪サル船ヲハ、コレヲ廃毀セヨ
其六ニ曰、新造ノ舟艦ヲハ、事ニ達練セル人ヲ銓択シテコレニ託シ、常ニコレヲシテ試ミ乗シメヨ、否ラサレハ急遽ノ用ニ充カタシ
其七ニ曰、都濃郡海中ノ黒神山村民ヲシテ、猥ニ其材ヲ採ル事を許サシ
其八ニ曰、サキノ浦頭ノ奉行等、公聴ニ達セスシテ民居ノ徭役ヲ鷁キシモコレアル歟、如此モノハ豫テ定メシ如ク徭役ニ従ハシメヨ
其九ニ曰、北辺逃亡ノ海民、悉ク本境ニ還ラシムヘシ
其十ニ曰、浜海ノ事、汝コレヲ掌リ任ニ堪タル者ヲ撰ヒ、豪富ノ民ニハ其賦歛ヲ益シメ、貧民ノ税ヲ薄セヨ
其十一ニ曰、沿海ノ地検正ノ事、公平ヲ以テ要トシ、偏頗ヲナスコトナカレ
其十二ニ曰、今度検正ノ事、旧簿載ル所ノ意ニ違フコトナカルヘシト也
この条令は、豊臣秀吉の第一回朝鮮征伐の和議が破れた直後に出されたものである。これによっても、下松に軍船が常繫されていたことが知られる。また下松は広島・赤間関に比しても、特に重視されていたように考えられる。即ち、其四にあげられている四郡は下松を中心とした地域であり、これらの地域で軍船に必要な資材の徴発を定めているのである。また、其七では黒髪島の木材の伐採を禁じているが、これは軍船の造船・修理のために必要なためと考える。もちろん下松に軍船が常繫されていることは、下松で造船・修理も行われていたと考えられるのである。矢田謹一先生がかって、「現在の宮前社宅の辺りを掘ったとき、大きな船材らしい材木が出たが、この辺りに造船所があったのではあるまいか。」と話されたことがあるが、一考すべきであろう。即ち宮前社宅の辺りで造船していたと思われる。二軒屋の海岸に明治時代の船大工の小屋が二、三軒あったが昔の名残りではあるまいか。
その後、毛利氏は関ケ原役に破れ、慶長五年(一六〇〇)十月防長二ケ国に削封されることになった。そのため広島城より萩城に移り、また船倉も下松より三田尻に移したのである。その年代は明らかでないが、慶長十六年(一六一一)にはすでに三田尻に移っていた。
御園生翁甫先生著の『毛利氏水軍と三田尻船廠』によれば
初船倉を周防国都濃郡下松におく年代知れざれど、下松が毛利氏広島城又は防長移封後の萩城とも隔絶して地理上何等の連係なく、その位置の極めて不自然なること並に下松が毛利氏と何等歴史的殯縁をも有せざること等より考ふるに、毛利氏移封の後未だ城地の決定せざるに先ち、一時便宜により船手を此地に移し、仮根拠地に充てしなるべし
と述べておられるが、下松には毛利氏広島城時代に、すでに船倉があったことは前述の『毛利氏四代実録』等によるも明らかであろう。
元和三年(一六一七)四月、毛利輝元の次男就隆は都濃郡の内三万石を与えられ、下松法蓮寺の地に舘邸をつくった。また、船倉も下松においたのである。『徳山藩記』に
天和三年下松え有之御船蔵、遠石町東端浦え引移建調成
とあって、天和三年まで六十余年下松に船倉があったことが知られる。
船倉の構造・配置等については、徳山・三田尻の船倉は、いずれも絵図が現存しているので知ることができるが、下松については史料がなく不明である。
下松の船倉の位置についても、記録類が見当たらないので所在した地を知ることができない。推定の域にすぎないが述べることにしよう。
『徳山藩記』延宝五年(一六七七)十二月十九日の条に
右同日下松町東之方御船蔵之者、浜辺二丁余片側町成、御船蔵え為火用心四十軒程空地被仰付之
とある。一本には「御船蔵之者」を「御船蔵之先」となしているが、地形より考えて後述の如く先でなく者であると思う。なお考えるべし。
船にのる水夫が住んでいるところが舸子(かこ)町であるが、下松に船倉があった時代の舸子町の所在についても記録がないのである。ただ、下松の舸子町についての史料としては、下松市内の寺院の過去帳に、非常に多くの御舟手何某の何と書かれた舸子及びその家族の者の死亡者名が載っているのである。
周慶寺 十八軒
渡辺 入江 松本 石丸 内山 中村 有田 石井 勝屋 赤尾 河村 藤田 石田 柳 塩見 入沢 三奈木 浅尾
普門寺 十三軒
内山 渡辺 石田 河村 石井 藤田 赤尾 勝屋 石丸 小林 入沢 浅尾 内山
西教寺 六軒
磯村 伊ケ崎 小林 白井 山本 塩見
正立寺 二軒
内山 下瀬
浄西寺(火事のため過去帳がやけ不明)
合計三十九軒を調査することができた。
舟手舸子の数については「徳山藩士卒階級表」によると
船手 五人
高十五石乃至二十五石及二人扶持
準士班
舸子 約四十人
切米高十石乃至十三石
船手支配 卒席班
と記されている。徳山市舸子町の古老に聞けば、下松より四十五軒ここに移ったと昔より言い伝えているといっていた。
これらの檀那寺のことより考えるも、舟手舸子の住んでいた地は下松のいわゆる、町方(まちかた)であって地方(ぢかた)ではないと思う。
これについて三人の古老より言い伝えを聞いている。
(1)現在の鋼飯会社の辺りを古河といい河が流れていた。またこの辺りに舸子が住んでいて舸子町田というのが残っていた。
(2)二軒屋はもと舟町といっていた。
(3)徳山の舸子町に住む古老は、先祖は下松の二軒屋に住んでいたと聞いている。
これらの言い伝えとも考え合わしてみると、舸子町は二軒屋より東にかけてあったと考えるのである。
船倉の位置についても記録がないが、私は舸子町の先と考え旧磯部氏の邸宅の辺りと判断しているのである。磯部氏が船倉を利用して屋敷をつくり、当時舟の泊場であった宮の浦から山際にかけて開作したものと思う。中豊井の下より恋ケ浜にかけて磯地・舟入の地名がのこり、恋ケ浜は小江ケ浜であり、往時は山際にいたるまで湾入して立派な港をなしていたと考えられる。大内時代の大船団の根拠地、毛利時代の軍艦常繫の港はいずれもこの辺りではなかったかと思う。
当時の船倉の規模等は『徳山藩史』の左記の記録によって想像することができよう。
御船蔵御船寸法附船名御改之事
一 御座船大鵬丸[古名住吉丸文化二年二月十三日改] 橋船付
長拾四間 幅一丈八尺八寸六歩
一 左蚪丸[古名左行丸文化二年二月十三日改]
長四丈四尺二寸 輻一丈二尺二寸
一 右蚪丸[古名右行丸右同断]
長四丈四尺一寸五歩 輻一丈二尺一寸五歩
一 三之通
長三丈九尺九寸 幅一丈四寸
一 洋通
長三丈七尺八寸 輻九尺六寸
一 嶋通
長三丈二尺三寸五歩 輻九尺
一 左進小早
長三丈七寸五歩 幅八尺三寸五歩
一 飛船
長二丈九尺一寸 幅七尺三寸
一 仙桂丸
長四丈三尺一寸 幅一丈一尺九寸
一 一之通
長四丈二尺 幅一丈一尺一寸五歩
一 二之通
長四丈一尺一寸五歩 幅一丈八寸
一 今小早
寸法右同断
一 唯小早
寸法左進小早ニ同断
一 洋安丸
長三丈五尺四寸五歩 幅一丈五寸
御手船手浦水夫乗組人数御定之事
文政八年(一八二五)乙酉四月朔日御定
一 右蚪丸 十八人乗内 御手舸子七人 浦水夫十一人
一 仙桂丸 十八人乗内 右同断
一 一之通 十六人乗内 御手舸子七人 浦水夫九人
一 二之通 十四人乗内 御手舸子六人 浦水夫七人
一 三之通 十二人乗内 御手舸子六人 浦水夫六人
一 洋通 十人乗内 御手舸子四人 浦水夫五人
一 嶋通 八人乗内 御手舸子三人 浦水夫四人
一 小早 六人乗内 御手舸子三人 浦水夫三人
右御用船大坂其外共仕出之節是迄行形、此度御吟味の上、向後船方乗組惣人数少々相減之内、御手舸子浦水夫之人数分ケ差略被定之候、尤御上御船行之序ハ其向々御例被相用候ニ付、格別之事
宮の浦一帯以外の下松の海岸線(切戸川の河口を除く)は、単調な白砂の海岸であったと考えられるので、前記の多数の大船を入れる船倉をつくるには、磯部氏邸宅の辺りが適当と考えられる。
毛利氏が下松の船倉を徳山に移したのが天和三年(一六八三)であるが、磯部好助によって最初の開作がこの辺りに造成したのは『徳山藩史』によれば
元禄三年(一六九〇)庚午三年十三日、磯部好助先生築開作石盛成田一町七畝二十歩、畠五反三畝
これによれば元禄三年(一六九〇)三月に石盛がなされたので、開作の築立はすでに以前に完成されていたと思われる。
また、磯部家邸宅については、磯部家系譜によれば
五代磯部時増正徳五年(一七一五)十一月二十八日家督を長子香之に譲り、次男増寿を伴い宮の洲の新宅に移住す
毛利氏の船倉が徳山に移った直後頃より、磯部氏は不用になった舟泊場の地域に漸次開作をつくり、舟倉跡を利用して邸宅を築いたものと思う。
下松の対岸の笠戸島本浦に舟倉・江の浦に舟隠の地名がある。港下松と関連していると思うが、これについては後日に譲りたい。
最後に、下松末武の出生で水軍の軍学者として有名な森重靭負・曾門の兄弟について述べよう。
森重靱負(ユキエ)
字は仲美、号を烏山(鳥山となす本あり)宝暦九年(一七五九)五月十日生る。年十八にして諸国を廻り、殊に江戸に在りて各種の武術を修めて安盛流・中島流・遠国流・禁伝流等の諸術に通ず。後、山本良一に従い橋爪廻新斉流を学び、村上蔵人より天山流砲術や銃陣の事を習った。また兵法に達して舟戦要法二十八巻及び砲術書若干、合武伝・得古伝・三島海戦法等を著わした。その門に学ぶもの二千八百余人に達した。彼の唱えた水軍の流派を合武三島流と称し、一に森重流とも称した。求玄流は是より派生したものという。享和三年(一八〇三)、十一代将軍家斉のとき幕府に仕えて御書院与力となり、兵学と砲術を講じた。文化十三年(一八一六)六月四日年五十八才で死した。
森重曾門(ソモン)
名は正芳、通称は曾門、号を井龍とす。明和六年(一七六九)に生る。兄森重烏山について合武三島流の水軍法及び円極安盛・中島星山の砲術を学び、その蘊奥を得た。文化年中、兄烏山が幕府の召に応じて江戸に到る時これに従うた。諸侯幣を厚くして招いたが、父母の国を出ることを欲せず皆之を拒絶した。のち長州藩より招かれて帰国し、萩にて水軍法・砲術を士大夫に教えた。藩主毛利斉熙が神器陣を創めるやこの編制の仕務にあたった。爾後水陸操練三十余回つねにその総督をつとめた。また仏道を信じ喜怒哀楽を面にあらわさず温良和敬、雅量があって常によく衆を容れたといわれている。天保八年(一八三七)十二月六日年六十九才で没した。
森重氏の伝記について種々調査したが、未だまとまった研究がない。また、史料もなくて不明な点が多いのは遺憾である。ほとんどの人名辞典に記されているこの下松出生の森重氏兄弟の顕彰のため、市民各位の御協力を切にお願いいたす次第である。
森重家は平田浄蓮寺の門徒であり、境内に森重家の墓がある。森重家の墓は大きく森重歡齋多々良直正夫婦之墓とあり、右側に歡文政四辛己歳七月十一日、左側に慈文政八乙酉歳三月十五日とある。子孫は四国におられる。私は訪れたが資料はなかった。
(昭四〇・一一、第一〇輯)