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6 下松災異誌

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 災異とは大字典によれば「思いがけなきわざわい、天災地異」と記され、また天災とは「地震洪水などの自然の災」、地異とは「地震海嘯の如き土地の異変」とある。今は「思いがけなきわざわい」の意より、火災疫病等も加えて述べることとする。
 下松の古い記録を調べてみると、火災と洪水と旱魃の記事が特に多いが、これは庶民の生活、衣食住に深くかかわっているからである。先ず火災について記すことにしたい。
 諸記録により社寺の火災をあげると、一番古い記事は『増補周防記』妙見記に
誠ニ当山繁栄ニ及ト云ヘトモ、天然尽テ慶長十三年(一六〇八)二月六日夜火災アリ、山中一同ニ煙トナリ、上宮残ナク、中宮拝殿二王門五重塔七坊宝蔵経堂神主ノ家悉焼失也、然リト云ヘトモ、中宮本社ハ今ニ残レリ、御神体七坊ノ本尊御焼失、七坊ノ衆徒並ニ巫人離散セリ
また同記の妙見追加の項に
慶長年中より自然と零落、年を重ね上宮中宮昔に替らさる也、以外堂塔鐘楼楼門二王門末社宮坊に至まて礎の跡のみ残り、草芒々と生茂り、伏猪の床と成りけり
と記され、慶長大火により妙見社は衰微におもむいたのである。現在も七坊の名が地名として残り、瓦も地中に埋もれていたと古老が話していた。また、経堂のあとより発掘された経筒を私は所蔵しているが、経堂のあった位置より考えるも、当時の妙見社の広大な規模を知ることができる。
 往時の社寺は、人々の参集する唯一の場所であったため、火災の起る機会が多く、市内においても多数の社寺が火災に遭っている。
 慶雲寺 延享四年(一七四七)  妙法寺 嘉永七年(一八五四)
 周慶寺 寛永二年(一六二五) 天保六年(一八三五)
 泉所寺 正徳三年(一七一三) 宝暦十二年(一七六二)
 浄西寺 宝永七年(一七一〇)  西蓮寺 天和元年(一六八一)
 多聞院・松尾八幡宮 文政二年(一八一九)  法静寺 宝永二年(一七〇五)
 福円寺 文化四年(一八〇七)  下松住吉社 天保九年(一八三八)
 正福寺 秋林寺 浄念寺 閼伽井坊地蔵院 蓮生寺 切山八幡宮(以上年月不明)
このうち妙法寺については『徳山藩記』に
  嘉永七年(一八五四)甲寅十一月五日東豊井村妙法寺地震ニて自火
とあって、地震によるものである。なお、浄西寺・周慶寺(寛永二年)・住吉社は類焼によるが、他はすべて自火のようである。
 民家の火災については、『徳山藩記』、『毛利十一代史』によって調べた。『徳山藩記』には
  十軒以上大火計記之、以下ハ繁多故略之、尤御出馬有之、或ハ焼死等ハ以下ニても記之
とあって、十軒以下の火事は記されていないので不明である。
寛永二年(一六二五)下松町出火
元禄三年(一六九〇)三月二十五日夜下松町東方左平次より出火百十三軒焼失
元禄三年十一月六日下松浦町出火六十四軒焼失
宝永七年(一七一〇)二月十二日下松東市浦町より出火八十三軒焼失
正徳二年(一七一二)正月七日夜下松西市札場前より出火ニて御領中川原町二軒残り不残類焼、東市樋之上地方(ぢかた)十二軒中市裏家三軒焼失
享保十四年(一七二九)三月七日暮過下松中ノ嶋出火二十一軒焼失
享保十七年(一七三二)九月十三日浄西寺門前より出火百二十六軒焼失
享保十九年(一七三四)十一月十日夜下松町居守屋三四郎・大黒屋伝左衛門両家家より出火、中市南側西ノ方十六軒焼失
宝暦八年(一七五八)十二月九日河内村重右衛門より出火親焼死類焼一軒
明和七年(一七七〇)十二月二日夜下松新町庄八後家より出火竃数四十五軒焼失、依之御出馬有之
天明六年(一七八六)四月十日夜豊井宮洲屋虎吉塩浜釜屋より出火釜屋八軒棟数三十四軒焼失
寛政六年(一七九四)二月十四日下松新町松屋清兵衛抱源助より出火竃数三十一軒焼失
文化十三年(一八一六)九月十日東豊井村出火二十八軒焼失
文政五年(一八二二)十月十三日夜下松町竹屋与十郎抱好蔵より出火十四軒焼失
文政九年(一八二六)二月朔日夜西豊井村喜左衛門後家自火身柄焼死
天保三年(一八三二)五月二十五日都濃郡宰判末武上村畔頭竹村三郎衛門居家(おりや)より出火ニて、居家七軒長屋五軒都合棟数十二軒焼失
天保九年(一八三八)正月十日夜久保市町出火六十五軒焼失
天保九年四月九日昼八時下松新町下瀬又兵衛抱貸屋より出火、町方七十三軒、地方九軒焼失
        住吉社炎上
前記の如く、明和七年(一七七〇)新町の火災に際しては、藩公自ら出馬している。また、焼死したものがあった火災を『徳山藩記』には二件あげている。
 火災は全部藩に報告されていた。また、百軒以上の大火は、藩より更に幕府に報告されていたのである。百軒以下でも、往還筋の火災は幕府に報告されていたのであるが、これらについての記録を左にあげよう。
元禄三年(一六九〇)三月二十五日毛利日向守配地、都濃郡下松東市失火百軒余焼亡ノ報アリ、之ヲ幕府ニ申告ス
天保三(一八三二)辰五月二十五日都濃郡宰判末武上村畔頭竹村三郎衛門居家より出火ニて、居家七軒長屋五軒都合棟数十二軒焼失之由、出火之次第相窮候処、自火無紛候申出候由、右之場所は花岡村八幡社之馬場口之由御座候、往還筋ニ候得は百軒以下ニても御届有之筋と相見候ヘ共、小火之儀ハ御届被成候御近例も不相見ニ付、御案文等共不報出越候間、此段図書殿被仰云云
 寛保元年(一七四一)の「御領内町方目安」によると、当時の下松の町は三七〇軒、一七〇四人であった。本通りには二二七軒あって、瓦屋三五軒、板屋二一軒、茅(かや)屋一七一軒、裏通りは八一軒で板屋一軒、茅屋八〇軒とある。これによっても、大部分が板葺か茅葺のため大火となりやすいことが分かる。
 消防については『徳山藩記』に「出火之節消防之義其外共諸沙汰之事」がある。寛文十一年(一六七一)十一月の条に下松について
一 徳山中火事出来之時分、各掛付消可申事
  附 富田下松其外徳山遠所之火事之時分ハ、町奉行手明之物頭居合候組之者召連罷出、万事下知可申付候、其外之侍共参義可為無用候、併於時当職可任指図事
と記されてある。また、享保十四年(一七二九)十二月の条に「火消方手配」として、いろいろと消火について詳しく記されており
右御書附之趣ハ徳山遠石右同様之義ニ候、下松富田福川辺火事之砌、月番之両組中可馳着候、尤町奉行代官作事奉行船奉行何もかけ着、下知を加火消可申、其外ハ至其節可有差図候事
とある。またつづけて
一 火消方手配り右之通御書付被仰渡、其外諸道具左之通夫々え為揃遣之
とあって、月番の御馬廻り組には大団扇・円居・梯子等をそなえ、町内では梯子・大団・大綱・わらほて等をそなえていた。
右之通渡方被仰付候間、わらほて梯子町々自身番之者受取渡仕、宅之前え飾置可申候、尤夏之内自身番無之節ハ、目代所ヘ飾置可申候、出火有之節ハ町中より軒別一人宛罷出、火事場罷越義ニ候間、遠方火事之節は右之火消道具半分程持参可仕候、残ハ徳山可差置候、残之者共ハ常々銘々軒別所持仕候水籠持参可仕候事
但軒別水籠一ツわらほて一本宛兼て御法之通所持仕、見せの大たれへ差出置候事
一 諸町火消道具其外仕法前ニ同断
とあるが、軒別に水籠、わらほてを出しておいたことは、今次の戦時中と全く同様である。明和八年(一七七一)十月二十五日の条に
一 両豊井河内右三ケ村より一村二十人宛、兼て御沙汰之通下松辺出火之節御殿欠付相働候様、尤此度木札六十枚渡方被仰付候間、人別腰ニ付罷出、鎮火之上右札岩崎次郎右衛門大野丹蔵役座え差出可申、究相済候上直様彼者共より地下役人之差戻させ候様被仰付候事
と記されている。なお、御殿とは下松御殿(下松地方史研究第二輯参照)のことである。毛利広豊公の隠居所で宝暦十三年(一七六三)に建てられている。また、御殿の防火のためには
  御殿近所農家二十間程の間ニ有之火用心無覚束、依之農家五軒解払所替被仰付之
とあるように、当時は重要な建造物の周りは、火道をきるために空地にしていたのである。このことは下松にあった御舟蔵の場合も同様であった。
  御舟蔵江為火用心四十軒程空地被仰付之
 賞罰について記すと、天保六年(一八三五)の周慶寺の火災について『徳山藩記』に
弘化四年(一八四七)丁未正月十六日先年寺焼失の砌、高五十石之内二十石減少被仰付置候処、此度思召有之以前之通被差戻、高五十石ニ被仰付候条、寺務弥以無惰修行可仕通御沙汰
これによれば、火災のため二十石の減石が行われたのである。
侍については相当重く罰せられていたようで、左に事例を記す。
一 吉松藤左衛門事、山代於御茶屋花火翫ひ候より発り、御茶屋并御道具類其外民家ニ至迄数多及焼失候趣ニ付、御家人被召放候事、付御代官役其外遠慮之事
右のように、家人を追放されている。民家の自火については左に事例を記す。
                                 庄屋 下瀬吉左衛門
   山県文平様                         庄屋 宇田伝七
態々申上候、然者今昼九ツ時宮之洲屋抱新開作八塩屋新五郎塩浜之台坪一軒焼失仕候条、右御届申上候以上
    二月十六日
 下瀬吉左衛門殿                       東豊井村庄屋 山県文平
宮洲屋幸吉抱塩浜預り主八塩屋新五郎台坪より出火ニ付、追込被仰付候処被指免候条、此段可被遣沙汰候、為此申達候、以上
    二月二十日
 右のように、民家の自火では追込を命ぜられていた。
処罰は、本藩でも同様であったと思われる。安永三年(一七七四)代官に下された沙汰に
 諸郡御仕置之事
出火之儀究相成、自火ニ相極分ハ火元追込三日ニて差免趣可被届出候、付火之手懸り有之時ハ火元不及咎候、尤類火二三十軒ニも及候程之事ニ候ハヽ、無延引可有注進候事
火災に際し褒賞をうけたことについては、次のような記録がある。
 御尋ニ付乍恐申上候事
過ル十日之夜、久保市町出火ニ付早速馳行見候所、御高札近火ニ付乍恐取置候所、儀助と申者参リ相頼外ニモ一人参り三人之者取下ケ、西蓮寺隠居ヘ持参仕候所ニ、追々隠居も近火ニ相成、又々参リ相尋候所ニ、最早儀助仁平両之者仁平宅ヘ取帰リ候趣承リ、私儀も大ニ安心仕候、翌朝原田治兵衛殿御差図ニ付、仁平より御預ケ申上候所紛無御座候、御尋ニ付乍恐御書上仕候、此段宜敷御取成シ奉希上候
 天保九年(一八三八)戊戌正月十四日
                                  岡市町  竹治郎
   原田治兵衛殿
 目代猪兵衛之所焼失ニ付当分治兵衛取計イ
 覚
                             岡市町  安左衛門(竹治郎事)
右当春久保市町火事之節、身柄発願ニて同町儀助治左衛門申、右御高札取除候趣、其働神妙之事共御褒美の御事候、依之殿様御通路之節、御高札場前江子孫ニ至迄罷成御目通江平伏可仕、尤其節ハ上下着用差免候之事、右之通り被仰付候、以上
 天保九年(一八三八)戊戌九月朔日
 乍恐御願申上候事
一銀札三百目也
右此度久保市町焼失ニ付、家作之者江少々工役加勢仕度之所、前書之通リ代銀ニシテ御上様ヘ献納仕度奉存候間、被召上被下候得は無此上難有仕合ニ奉存候、此段乍恐御願申出候間、宜敷御取成シ被仰上可被下候、御願申上候
 天保九年(一八三八)戊戌二月
                            岡市町  竹次郎事 安左衛門
目代 藤井猪兵衛殿
年寄 原田新蔵殿
 覚
                                 岡市町  安左衛門
右当春久保市町焼失之節、銀札三百目加勢仕度段依願被為受候、其志奇特之儀共御賞美之御事ニ候、依之一代上下着用差免候事、右之通り被仰付候、以上
 天保九年戊戌十二月二十八日
 『徳山藩記』に
  一 領違ひ町在より加勢之人数候ハハ、町奉行代官申談、当座之挨拶有之、追て一礼可有之事
と記されていることから考えれば、領内の者の加勢には無報酬であるが、徳山藩外の者には報酬も出されていたようである。
罹災者の救済については、元禄三年(一六九〇)十一月七日の条に
先ニ往還筋之町屋出火之節、類焼之者え米一俵被遣、半役仕候百姓ニハ米半俵被遣、在ニテハ諸町ヨリ軽く、時節ニより飯米被遣候事も有り、百姓ニより於御立山材木採用被指免候、農具等焼失ハ銀子ヲ貸、年賦ニシテ取立被仰付候、且町在共疫病等相煩候時ハ、役所より重き祈禱申付札守等被相渡、又医者ヲ付養生被仰付候義古来之例之通ニ候、又長崎上方より人参一同ニ御取寄相成、御家中大切の病人江ハ入用次第被遣之、代銀ハ至暮知行之内ヲ以被申付候、因て町在之者も手筋ヲ相頼賈得候て大々仕合候
と記されているので、大略を知ることができよう。
 現代の人々が想像することもできないほど、神仏への信仰心が厚かった当時の人々にとって、火災に対する宿命的な恐怖心から、神仏への信心祈願となってあらわれてくることは、当然なことであろう。下松の町には荒神社、西市に鎮火白菊稲荷、久保市に由加社、花岡に稲荷大明神があって、いずれも火災から人々を守護される神々であった。荒神社については、「下松地方史研究第七輯」で述べたので省略する。
 西市の鎮火白菊稲荷は、正福寺境内に祀られ火除の神として名高い。『風土注進案』に正福寺の鎮守として稲荷社が記載されているので、古くから祀られていたと思われる。
相本高義氏の『末武覚之書』に載っている「鎮火白菊稲荷縁起」を左に掲げよう。
昔々ある森に、百年の功を経て全身銀色にかがやく、毛並みも美しく神々しい白狐の夫婦が住んでいました。この上は京に上り、伏見の御本殿より位を授かり、神通力を得ようと相談し、牡の白狐は旅立ちました。幾日か宿りを重ねてこの村にさしかかり、やっと一休みという処を、この村の浜子に見つけられました。浜子どもは、話には聞いてはいたが見た事もない白狐なので、とって食べようとあちこちと追いかけまわし、とうとう正福寺裏の竹籔に追いこみました。追いつめられた白狐は、今は観念したかじっと自分の非運をなげくかのように、身うごきもせずうずくまっていましたが、その姿はちょうど「命はお助け下さい、御恩報じはいたします」と訴えているようでしたが、非情な浜子たちは、とうとう打ち殺して皆なで寄り集って食べてしまいました。一方牝の白狐は、京に上った牡がいつまで経っても帰って来ませんので、自分で又尋ねていくことにしました。ようやくにして下松の近郊までくると、この地の眷属たちから牡の非業の最後を知り、日も夜も嘆き悲しみました。その頃から、西市では毎夜のように火事が起りはじめました。火の気のない軒端や高い屋根のむねから、突然に火をふく場合もありました。村人は夜もおちおち寝られず、不安な日夜を過し、仕事もろくろく手につきません、そこで心ある人々が集まって「これはキットあの白狐のたたり」に違いないと気づき、皆の浄財を集めて正福寺の境内に、この狐を祭るお社をたて、ねんごろにその冥福を祈りつづけました。それからは不思議と火事もなくなりましたので、鎮火稲荷として、近郷へもその霊験のあらたかなことが知れわたり、多くの人々の尊信を集め、正月初午の日には盛大におまつりが催され、遠近からの信者の参詣で一日中にぎわいます。
 久保市の由加神社については、社記によれば
火災除祈願のため、天保九年(一八三八)戊戌創立す。本社は火除の神として、備前田の口、由加本社より、光格天皇文化二年(一八〇五)乙丑六月二十二日熊毛郡呼坂に勧請されてありしものを、仁孝天皇の天保九年(一八三八)戊戌六月二十二日当地に創設されしものなり
と記されている。前述の天保九年正月十日の大火により創建され、今にいたっている。春秋の祭日は近来まで大変な賑わいであった。
 花岡の稲荷大明神は、出世福徳稲荷大明神と称えられ、近来参詣者が多く、秋の稲穂祭は特に賑わい、狐の嫁入りの行事は名高い。
 同社の縁起によれば「火難盗難を除き出世と福の徳を与える」といい、幾多の奇瑞があらわれたため、祀るにいたったと記されている。火難を除くことを最初に記されていることによっても、当時は火除の神としての信仰がさかんであったことが知られる。
 このように当時、人家の密集していた町には、必ず火除の神が祭られ、人々により崇敬されていたのである。
 以上、藩政時代の下松の火災について、大略各方面より調べたのであるが、史料の不足特に萩本藩領については、ほとんど史料がないため、十分に調べることができなかったのは残念である。なお米川地区については後日の研究に譲りたい。
 新しい消防組の結成については、未だ調べていないが、末武南村の消防組設置当初の村会の記録があるので、左に掲げよう。
大正六年二月二十日村会記録
議案第十二号
 末武南村消防組設置ノ件
  一 本村ハ左ノ五部ニ分チ、各部ニ消防組ヲ設置シ、組頭之ヲ統轄ス
   第一部 字平田 尾尻 藤光
   第二部 字西市
   第三部 字大海町 東開作 西開作
   第四部 字笠戸
   第五部 字深浦
  一 器具及建造物被服等ノ設備費及修繕費ハ、其半額ハ各部落ノ寄附ヲ以テ之ニ充ツ、但毎年出初式諸費ハ、各部ニ対シ金五円宛トス
  一 各部ニ於ケル役員及消防手ハ、青年会員ノ内ヨリ之ヲ撰定ス
     但出場手当ハ之ヲ給与セズ
      大正六年二月二十日提出
                               末武南村長  田村嘉作
 次に、風水害・旱魃等について述べよう。
 諸史書に記載されているこれらの記事は、火災の記事についで多いが、具体的に下松の地名の出ている記録は極めて少ない。しかし、周防・都濃・徳山領の風水害等の記事は、下松とも関係があると考えられるので引用したいが、『山口県文化史年表』についてみても一四七件、『徳山藩史』(異変の部)四〇件の多きに達するので、ここには略することにした。記事の中よりあげてみると
寛喜二(一二三〇) この二三年大飢饉により周防の租賦不納。
寛永一九(一六四二) この年飢饉につき心得十一ケ条を頒ち諸芸人、絹布販売者、唐津焼物、五穀類および他国の造酒を両国内に入るを禁ず。
明暦三(一六五七) 去年凶作。米価騰貴につき国内穀類の出津を禁ず。
寛文三(一六六三) 本年旱魃につき諸社にて祈禱。雨乞いのため大畠瀬戸に法華経三巻を沈む。
寛文一二(一六七二) 両国の斃牛四万八千八百四十八頭におよぶ。
延宝四(一六七六) 地震、これより日々震して月末に至る。
延宝六(一六七八) 両国内暴風雨、高潮襲来、秋損高七万九百四十石余におよぶ。
天和三(一六八三) 洪水の時の流木処置に関し令す。
元禄六(一六九三) 両国大風雨、被害甚大、倒家千八百、他国の廻船百二十四隻破損、海上の死者百二十四人。
宝永三(一七〇六) 徳山地方に地震、高潮、山崩、岸崩あり。
享保六(一七二一) 今秋の暴風および蝗害田圃の損失高三万石余、倒家百九十五軒その他の被害を幕府に報告す。
左に、下松の地名が記されている風水害等について述べてみたい。
 『地下上申』の河内村の記事に
  右小村之内仲戸原村と申ハ、往古大水出し時戸板一枚、所之真中に流れ居候故、其後仲戸原と申ならわし候
とあるが、洪水に基づく地名伝説である。来巻村の小字名「崩成」(つえなり)も、山崩によってできた土地であろう。このように、地名によっては古代の天災を知ることができる。
 古来より言い伝えられていることに、切戸川はもと下松小学校の方に流れていたが、大洪水のため川筋がかわり、現在の切戸川になったといわれている。甚だしいのは、百数十年前の洪水によると言った人もあった。切戸川の切戸は、現在の中島町の上の小字名である。末武川を一名荒神川というのも、下流の地名荒神の名をとったのと同様である。切戸川の洪水説も、切戸川の切が堤防を切るとの連想からきているように思われるが、小字名切戸は中島町(古くは三角洲)との間の峡(はざま)より地名となったものと思う。また、切戸川の川口地域の古来の発展(下松地方史研究第二輯参照)を考えると、洪水説には同意できないのである。小学校付近の地下より、川底であったことを証する砂礫等が出ていることにより、切戸川の河流の変遷があったとすれば、それは古代のことであり、考古学による研究によらなければならないと思う。金輪神社の横を流れていた川、あの辺りの「古川町」という地名、「新川」の名、「中戸原」、切戸川の「戸」の関連など調べると興味があるように思う。
 年代を追って、下松の災異に関係のある記事を記す。『寺社由来』に、「都濃郡末武上村分国寺由来書」として
当寺観音、周防三十三番之札所之内十二番の観音、往古は禪定寺と申伽藍御座候と申伝也、何頃か及破損、観音堂も不被建置仕合ニ相成候由、夫故同村の内高禅寺山え堂御下ケ仕、其後亦花岡八幡山之内江右之堂造り候て、閼伽井坊預りニ相成候由ニ御座候、然所ニ其節末武村以之外田作虫枯強不熟ニ付及困究ニ候、因玆御百姓中存寄候ハ、限有禪定寺致大破、其上観音堂迄八幡山え取下ケ造リ候故共ニては有之間敷やと此段歎申候、依之往古之通、禪定寺山堂屋敷古来よりの堂屋敷有之ニ付、元禄十六年之夏花岡閼伽井坊より御断申出候、則御免許相成候、夫故早速当山堂屋敷江観音堂造り申候、其後宝永六年丑之秋、都濃郡中より御断申出候て、郡中五穀成就之祈願寺建申度候、只今迄ハ存寄次第ニて詰リ不申候、向後は諸村一同ニ何とそ禪定寺観音堂護摩所ニ仕度と御断申出候処ニ御免被成、夫より花岡閼伽井坊隠居良長罷登、前年正五九月ニ五穀成就之御祈禱護摩執行相調来リ候、右之御祈禱料として、年々郡中より米四石三斗五舛宛御裏判物辻を以相立申候、此段願出之儀は郡中諸庄屋中より連判を以願出事、右之御祈禱料願出之書付御判物は毛利八郎左衛門殿御役中之御裏判物有之候事
と記されている。このようにして観音堂は都濃宰判の五穀成就の祈禱所として、郡民より崇敬され享保八年(一七二三)には厚狭郡より分国寺の寺号を引寺した。長く霊場としてさかんであったが、分国寺は後に廃絶するにいたったのである。
 『徳山藩記』によれば
宝永二年(一七〇五)九月十八日両豊井河内来巻山田生野六ケ村数年虫枯有之、現米千石余両年共ニ御所務減候、依之地方より御断申出、萩鶴林寺河内鷲頭寺江招請一七日之大祈禱勤之祈禱銀二貫目被下候ヘ共、猶入目太分ニ付一貫八百目御借被成候、当秋枯留リ候ニ付、御祝として御貸銀捨被遣候
農民の全生活がかかり、人力の限りを尽した農作物が災害により壊滅したとき、彼等は神仏に祈願するよりほかに途はなかったのである。
 『風土注進案』切山八幡宮の条に
  天明年中田作大虫枯之節、氏子中立願仕、六ケ年一度宛神舞執行仕来り候、右入目元米先年庄屋内富孫四郎より寄附仕候事
と記されているが、祈願についで神慮を祈慰するために、神舞が行われるようになったのである。ここに記されている天明年間は、天明饑饉として全国的に凶作による饑饉であったが、防長二国においても風水虫の被害は毎年に及び、まことに非惨の極みであった。徳山藩については『山口県文化史年表』に左の如く特に記されている。
 安永九年(一七八〇) 徳山藩旱損高一一、二六一石余。
 天明四年(一七八四) 徳山藩大風洪水、減収一一、〇〇四石余。
 天明五年(一七八五) 徳山藩旱魃大雨にて減収高一六、〇〇〇石。
 寛政四年(一七九二) 徳山藩風水害にて今秋稼減収高二〇、九三一石。
当時の惨状を『毛利十一代史』には
去年(天明三年)米穀不熟して其価日々に貴く、飢民巷に満て凍餓する有様、或は老幼を棄てて他郷に走り、或は一日を送り兼て淵河に投ずるものなど、至る所惨状ならざるはなし、官又之を救うに術なく、府下の民而餓死する者あるに至る。
と記している。しかも、これは為政者である藩側の記事であることを考えると、一般民衆の実状はこれ以上に悲惨なものであったと考えられよう。藩としてとられた救済策については後に記す。
 『徳山藩記』に
元禄十五年(一三〇二)八月二十九日大風雨永歪御検見共ニ、今損高二千六十五石四斗倒家潰家三百五十七軒、倒木井手落道損等夥敷公儀御届被成候(先々より「不作之年百姓望次第検見被仰付、百姓作徳被遺、有抵之御沙汰仰付来、年貢御蔵え調米、脇々と違米不仰付、百姓仕合申候」)
と記されているが、永久不作の地を認め、百姓が申出るといつでも検見をして有利なように取決め、また上納米も選別せずできた米のままで許したとある。当時としては善政というべきであろう。
 『省耕集』という詩集が現存しているが、これは徳山藩主毛利元蕃が嘉永三年(一八五〇)の台風の後、侍臣と藩内を巡視し民を賑恤した時の詩文を集めたものである。昌平黉教官安積信撰した序文に
嘉永庚戌歳(一八五〇)八月、周防颶風暴起、発大屋、抜大木、禾稼悉損傷、民不得収斗粟、闔国大飢、徳山侯深憂之、開倉廩糴于他邦、百万賙恤、忘寝与食、豪農大賈化其徳、争出金穀相振貸、是以雖遇古今未有之大災、而無一人餓且斃于途者、越明年、侯益尽心民事、軽装小隊、周視封内、勤農省耕、問疾苦、恤窮乏、召見高年及孝悌力田者、賜以銭穀、民感喜…… 亦可以窺盛徳之一斑矣、故信不辞而序之、以為後世之亀鏡云
と記されている。『徳山市史』には元蕃について、「幕末多事のとき敬親と志を同じうし、ともに国事に尽して藩政掉尾の活動をし、また常に心を文武の作興に致し力を民政に尽した」とその生涯の事績を記し功を讃えている。
 『省耕集』より引用しよう。
正月晦日巡視生野河内栗野諸村 岐陽
 春山払黛馬頭迎 為閲村田且出城 呼婦再三勧蚕織 属農反覆教牛耕 垂楊寺裡鶯千囀 嫩麦畦頭路幾程 歩歩黙思救荒術 此情尤異踏青行
 (岐陽は元蕃の号 生野は現在の生野屋)
扈従生野河内栗野諸村恭記十首 本城 斐
 山影復山影 水声還水声 沿途憐歳倹 駐馬問春耕 已賜高年老(所在召高年老〓者、八十以上賜銭若干、九十以上賜棉及銭有差、是日河内村有百歳嫗)更旌至孝氓(所在召孝子賜銭各有差而其最厚者、更賜榜札、署曰孝子某、以掛之於戸外、此制前古所無也、是日賜河内村女嘉弥者、以至孝之榜、盖特事也)定知草兼木曖曖日敷栄(所在又召力田勤賈及風災後賑貸郷里者、賜物各有差、凡公親召諸民者、盖近古所無也)
(作者の本城斐は侍臣本城清、文中の河内村女嘉弥は孝女おかやのことで、昭和通西念寺の前に孝女お加屋彰徳碑がある)
星祠稍将近 鈴響隔林伝(是日詣下松北辰妙見祠)暫蔭召公樹(行惓則踞胡床而憩不問樹下草上) 偏憂杞国天 春泥猶帯凍 残雪已成烟 捨馬且閑歩 東風閲麦田
藩主自ら数人の侍臣と藩内を微行し、庶民の辛苦を察し老齢者を慰め、孝子、篤農家を賞するなど、仁政が行われていたことが知られるのである。
 下松市内の寺院につき、風水害による災害の記録(主に過去帳)を調べるに
教応寺過去帳
明治三年 本年ハ非常豊稔ナリ、然ルニ昨年ハ七八十年已来ノ凶作ナリ、為ニ小民ハ困難不少ト云
明治六年 地券発行セラル 百年以来ノ旱、末武田地ニ水無シ、狂気変死
光円寺過去帳
安政五年五月二十一日 添谷ノ召蔵弟十二才、右大洪水ノ節彼家ノ少シ上竹籔ノ側ニ枇杷ノ本有之、彼ヲ取ルトキ川ニ落ル、直ニ流ル、其後死骸行方不知、同二十五日仮リ葬式ス明治七年七月九日、暮六ツ時ヨリ北風ソヨソヨ吹出ス、夫ヨリ追々風強ク相成、夜四ツ時頃ヨリ風南ニ迫リ大風ニ相成、大雨大風夜七ツ時西風ニ相成り、此時誠ニ古今未曾有ノ大風長州・防州何レモ不残、風中ニ三田尻・山口当リ別シテ大風ノヨシ、当所近辺コケ家当寺下ノカシヤ又岡市瓦場、同所原田政吉隣家ノ亀山新兵方…………其外山田中ニ二十軒、全コケ家屋根ノ破損ハ軒別大破シ、当寺本堂屋根四方破レ、庫裏二方破レ、此近所男女老若我モ我モ背ニ負テ来ルモ有リ、泣々歩行シテ来モ有リ、内外ノ者見舞言葉ニ一人モ泣カヌ者コソナカリケリ、其翌日土地ハ少シモ見エス、諸家ノフキ草ヲ吹散シ、誠ニ恐ロシキ事ナリ
誓教寺再建勤化施主録
 弘化二年(一八四五)乙巳四月
          世話方 木村権右衛門
右切山村誓教寺、去辰五月洪水ニ付、本堂・門・庫裏・長屋等ニ至迄崩損シ、其上仏具並家財道具等大痛ミ、千万難渋之事奉存候、雖然于是不思議成哉、御尊様多分ノ御難渋も無御座、乍併御尊之内御太子七祖様御絵御表具替トシテ御上京之御留主、彼是仏祖之御威徳カト感入恐悦不可過之候…………
正福寺には流れ地蔵尊がお祀りしてあるが、その由来によると
人皇第百十三代東山天皇の御宇、元禄十六年諸国に古今未曾有の大洪水のありし事を、古記録に徴して追想するに、当時の水害によって人畜の死傷、家屋の流失、山林田畠の荒廃に帰したことは、諸国に亘り名状すべからざる曠古の一大悲惨事であったであろう。今尚此地方において当時の惨状を想ひ起さしむるのは、都濃郡米川村字船ケ原の県道筋の西面に聳える高さ二百米位の雌嶽・雄嶽の大崩壊の跡で、今人もよく判断する所である。
此山が元禄の大洪水の時に山潮を噴出し、半分に裂けた土石で米川を埋没し水流全く閉塞さるる事七日七夜、氾濫する水は字下谷村落に一大湖水を形造ったと思はれる。村民は山上へ避難して船で通うたのであろう。其辺に船ケ原の地名あり。斯の如く氾濫する水は、遂に潰決し始め崩壊の土石を曲りなりし突破し、又々大変な大洪水となって下流末武の郷は満面泥の海と化し、田地・家屋は見る影もなき惨憺たる河原となり、現今の字東河原・西河原の地名を残した。…………雌嶽・雄嶽が山潮を噴出して半分に裂けた刹那、嶽山に棲んでいた猿数匹は驚き慌てて逃げ場を失し、大崩壊の土石諸共墜落して米川へ生埋めになったのであろう。其死骸が突破した大洪水の為、花岡下市の小川に漂流したので、今に川の名を猿川と云う。此大洪水の惨害は仏様の御霊像にも及んで、末武上村日尾山麓字粱にありし地蔵尊は、洪水に押流されて末武下村字西市へ漂着した。当時復興事業と共に地蔵尊を(今の華月座の地点に)安置し、時めく御はつじどうであった。星移り物変り明治三十年六月十日の大暴風雨の為に堂宇倒壊し、致方なく地蔵尊を正福寺の薬師堂内陳左側に幽閉して仕舞った。誠に可愛相な事にお成り遊ばしたのである。往古は大洪水で押流され、末世に又押込められ、誰訪ふ人もなし。何んという因果な事であろう。勿体なくも此延命地蔵尊は、往年西市の火災を護らせたまいし御霊験を以て、一名火除(ひよけ)の地蔵尊と申し奉る…………
この霊験記は正福寺寺伝のものではなく、観音の信者が昔からの伝説等をまとめて作り、巷間に流布されていたのであろう。洪水に基づく地名伝説等が集められ興味がある。
 このように洪水と関係のあることから、古来より旱魃を救われる仏様と信仰され、先年末武地域の大旱魃の際は、この観音様を末武川に遷し水にて洗い、雨乞いをしたと古老が語り伝えている。現在も正福寺薬師堂に安置され、毎年八月二十四日にお祭りが行われている。
 農民にとって、雨風旱虫等の自然の事象ほど、農耕に関係の深いものはない。農民が全力をつくした農作物を、一朝にして全滅させる自然の猛威に、人々は自然を支配すると信ずる神仏を信仰したのである。古来より行われている妙見宮の風鎮大踊が、台風の時期を前にして行われ、盆踊りより風鎮の踊りに変っていったことなども、農民の神仏への信仰を考える上に興味あることである。
 各所に祀ってある神仏の神性を知ることによって、その土地に住んだ昔の人々の苦悩と願望を知ることができ、それによってその地の古来よりの災害を推測できるであろう。開作地に祀られてある神祠については、「下松地方史研究第八輯」を参照されたい。
 なお、下松・徳山地域、防長両国に起った風雨旱虫等の災害の年次については『山口県災異誌』『山口県文化史年表』『徳山藩史』(異変の部)を参照していただきたい。
 地震については『徳山藩記』に
 嘉永七年(一八五四)甲寅十一月五日 東豊井村妙法寺地震ニて自火
と記されている。これが唯一の下松における地震の記録である。『徳山藩史』には徳山における地震を三件ほど記し、被害についてはほとんど記されていないので、この地方の地震については古来より大きな災害はなかったと思われる。
 疫病についてはあまり記録が見当たらない。
『山口県災異誌』『山口県文化史年表』によると流行病については
 享保十六年(一七三一)十七年十八年 未曾有の凶荒悪疫流行餓死する者多く悲惨を極む
 寛延四年(一七五一)八月九月頃 両国感冒流行
 文化十一年(一八一四)六月 流行病あるにより満願寺に於て祈禱修せらる
 天保九年(一八三八)九月 疫病流行す
 明治十年(一八七八)十二月 県下にコレラ流行
以上である。また、市内の記録としても、寺院の過去帳にわずかに明治年代のを記すのみで、古い時代のは記載されていない。ただ、寺院の過去帳(下松地域の真宗寺院円成寺・西念寺・西教寺・正立寺を調査す)の死亡者数によって、前記の年代の状況を考えると
 享保十六年(一七三一)の死亡者数は普通 十七年は多し 十八年は非常に多い
 寛延四年(一七五一)普通 文化十一年(一八一四)普通
 天保九年(一八三八)多い 明治十年(一八七八)多い 明治十二年多い
過去帳によってみると、天保元年(一八三〇)六年八年が非常に多く、文久二年(一八六二)は極めて多い。特に文久二年は平年の三倍位の死者があった。年表と併せ考えるとき、年表の飢饉、流行病等も、死者と必ずしも関係があるとは考えられないように思う。
 疫病についての古老の言い伝えとしては、恋ケ浜に現存する天明六年(一七八六)の石灯籠は、天明年間に悪い病気が流行したため、ここに灯籠を建て毎夜献灯し「妙見様が遠いのでここから遙拝していた」と伝えている。天明六年の石灯籠は、久保岡市・下松樋上にもある。夜ともなれば諸所の石灯籠に灯はあげられ、氏神様を遙拝している庶民の姿を思い、感慨無量なものがある。
 また、開作の祇園社は疫病がおこったために、山口から勧請したといわれている。
 なお、平常の病気については、西市正福寺の薬師様、高塚の乳観音、二宮町の一畑薬師は、古来より病気を治してくださる仏様として有名であった。
 以上のように、火災・暴風雨・旱魃・虫害・疫病等により、如何にわが先祖が苦悩したかについて記してきたが、仏教では我が宇宙を地水火風空と観じ、それらの苦悩より脱する悟の世界を五輪法界塔婆となし、古くは五輪塔を墓石としてまつったのである。
 今まで五輪塔が河溝に、田畑の隅にころんでいるのを見付けるたびに持ち帰り、我が寺の墓の傍にまつり、無縁塚としていたのであるが、この災異誌を書く奇縁として、次は「下松の五輪塔」について調べることにした。五輪塔について何かお知りの方は御教示賜わりたくお願いいたしこの稿を終ります。
(昭四五・一二、第一三輯)