第二章 設置の原因
第一節 地理的要因
第二節 堀正一氏と矢嶋専平氏
第三節 久原氏と下松
第三章 計画の概要
第四章 計画の発表
第五章 久原鉄工株式会社
第六章 土地の買収
第一節 第一次買収
第二節 第二次買収
第三節 買収価格の決定
第七章 日本汽船株式会社
第八章 工事の開始と下松地方の活況
第九章 造船事業の中止
第十章 其後の問題
第一章 はしがき
地方史としては極めて新しい問題で、これに関係された方もたくさん現存されているので、こうして一度まとめておくと、いろいろと訂正していただかれると思い、不敏をもかえりみず書くことにした。
一漁農村にすぎなかった下松が、今日のような工業都市として誕生するについて、どんなことがあったのだろうか。産まれ出る苦しみと、現在までにつながる数々の問題について考えてみた。
このことは近頃の問題であるが、すでに参考とすべき大切な史料は多く湮滅されていることは、至極残念なことである。史料としては、久原工業設置[一町四ケ村]連合期成会庶務録・笠戸工場史・下松町会議事録・末武南村会議事録・防長新聞・関門日々新聞及び当時の関係者の言によった。
史料教示の点については、山口県立図書館石川卓美氏・笠戸工場矢田謹一氏・元下松町長兼清常吉氏の御厚意に対し厚く謝し、また御多忙の中を種々有益なお話をしていただきました繁沢惣吉氏・喜多隆三郎氏に厚く御礼申し上げます。
第二章 設置の原因
第一節 地理的要因
久原氏が、なぜ下松に工場を設置しようとしたのであろうか。それは第一次欧州大戦により世界的に船腹が不足したので、連合国側よりの造船の註文が殺到し、当時我が造船界は空前の繁栄を示した。大正六年には、実に我が国内で三三五ケ所に大小造船所が新設されるといった状態であった。久原氏はかかる情勢により、ここに一大造船及び製鉄所の創設を計ったのであって、笠戸工場史によると
大正六年春 神戸市播磨町の日本汽船株式会社内で、この事業の創立準備を開始した。続いて事業経営上必須の要件である港湾交通運輸電動力の供給、その他の便宜を具備する土地を、瀬戸内海沿岸一帯にわたって物色した結果、下松は洲鼻を境として左右の港湾に面し、地形上良港としての条件をも具備し、最適でありかつ又久原氏発祥の地である関係上、工場用地を下松町附近とする事に決定した。時に大正六年六月の事であった。
と書かれ、また当時の記録である久原工場設置[一町四ケ村]連合期成会庶務録の冒頭に
周東都濃郡の南海岸下松湾ハ、由来識者ノ認ムル天下ノ良港ニシテ、軍港其他種々工場候補地トナリシモ、未タ其期ヲ得ス。単一漁村トシテ今日ニ至レリ。
と記されている。即ち下松の地が、地形上良港にして水陸交通の便に恵まれ、採炭地北九州への近接等地理的要件よりみるも、工業立地に最適の地であるため、工場用地として決定されたのである。
第二節 堀正一氏と矢嶋専平氏
次に当時の貴族院議員堀正一氏、陸軍大尉矢嶋専平氏の功績をあげねばならない。大正六年六月十一日久原房之助氏・計画主任中山説太郎氏・堀正一氏の三者は、大阪住吉の久原氏邸に会したが、その際始めて久原氏より地元側堀氏に対し、此度の工場計画の全貌が明らかにされたのである。堀氏は直ちに賛意を表し、第一期事業の敷地の大部分を占める矢嶋専平氏を紹介した。久原氏は直に矢嶋氏に土地の買収に応ぜられたきことを懇請されるや、矢嶋氏は即座に何等の条件もつけず、下松地方発展のため之を快諾されたと、当時の新聞紙は報じている。下松地方の最有力者である堀・矢嶋の二氏が、率先工場設置に賛意を表し、尽力を約されたことは非常に久原氏を力づけ、計画は一段と進展していった。其後、堀・矢嶋二氏は常に工場設置運動の中心となり、推進力となって活躍されたのであって、「庶務録」には前記に引きつづき
然ルニ過ル六月二十日、貴族院議員堀正一氏、陸軍大尉矢嶋専平氏等ノ紹介ニ依リ、久原工場設置ニツキ、敷地買収ノ件ヲ各関係町村ニ交渉サル。
と記されている。
第三節 久原氏と下松
久原房之助氏は藤田組をおこした藤田傳三郎氏の甥に当たるが、藤田家の祖先は、六代の間下松中市に住し酒造業を営んでいた。傳三郎氏の父常徳の時事業に失敗し、一家をあげて萩に移住したのであって、現在も中市周慶寺には藤田家先祖の立派な墓がある。墓の規模等より考えれば、相当の家であったと思われる。
久原氏はこのように、藤田家を通じて下松と関係があるのであって、下松が久原家発祥の地であるというのは妥当でないと思う。房之助氏の父庄三郎(傳三郎の兄)は、藤田家より須佐の久原家に養子にいかれたのである。
こうした関係から、藤田氏も下松を推奨され、久原氏も祖先縁故の地として下松の地を選ばれたものと思う。
第三章 計画の概要
古老達に当時のことを聞けば、開口第一番に語ることは「下松が人口十八万の世界一の大都会になるという当時は話であった」とほとんどの人が話して聞かせるが、当時の下松の人々には全く夢のような話であったのであろう。計画が発表された当時の防長新聞(大正六年六月廿六日付)には、次のように報ぜられている。
久原氏が下松湾を利用して
世界的大工場の計画
九十万坪の地と十八万人の職工及家族
久原房之助氏が畢生の大事業として、都濃郡下松町太華村両町村に亘る沿岸を利用し、久原氏が各地に於ける工場を統一すべき一大工場を設け、前記町村並に久保村に亘り職工及家族其他十八万人を収容すべき土地を開くべき大計画あり。地は下松町恋ケ浜より太華村栗屋川に至るまで、下松町末武南北太華四ケ町村を貫く鉄道以南(市街地を除く)約九十万坪にして、第一期の事業として全坪数の約三分の一の面積に相当する下松町恋ケ浜より、同町東端なる二軒屋に至る間鉄道以南を直ちに買収に着手すべく、買収終り次第工事に着手、此地域は専ら造船所に充て、一ケ年後に於て造船を開始する計画にて、その処要の職工約三千人なり。残り全部の地並に対岸一帯を埋立てたる地に鉄工場を設くべく、鉄工場は少くとも三四年以内には事業開始の予定にて、この職工一万七千人を要す。又此地域を流るゝ川は横に運河を設け、荒神川に併せて海に注がしむべく、下松町字能行を重要なる社員の社宅地とし、別に職工並に家族其他を併せて十八万人を収容すべく、四ケ町村に亘り新市街を設け、之に上下水道電車を始め劇場公園等の設備をなすべく、又下松湾内対岸の地には、外国船乗組員其他のために娯楽場を設置すべく、凡て世界的模範工場としてドイツのクルツプ、英国のビツカース両会社の大工場と匹敵すべき計画なり。
と記している。つづいて七月二十一日の同紙上には久原工場付近地図をかかげ詳細に説明している。

久原工場附近地図
1 図中縱線の地(下松町字二軒屋以東鉄道以南)は第一期事業として造船業を経営すべき地。
2 横線の地(鉄道線以南下松町二軒屋以西太華村栗屋川迄、但し市街地を除く)は、二期以後の工場敷地船渠製鉄業を営む地。
3 碁盤目線(下松町鉄道以北の一部)の地は、社宅建設地。
4 黒色の地(下松町切戸川以東の殆ど全部)は、社宅娯楽場徒弟学校等の建設地。
5 荒神山は、切崩し海岸を埋立。
6 海岸一帯の点線内(下松宮の洲の西岸より大島半島の東岸に至る)は、埋立予定地。
7 笠戸島及び大島半島は、将来の娯楽場地。
8 下松末武南北太華久保五ケ町村は、模範都市経営地。
9 末武川はこれより以東の各河流を横に運河を造ってこの川に合流さす。
当時の計画の正確な資料が得られなかったので、新聞の報道や古老の言によったが、両者とも大体においてあまり相違はなかった。
現在九十歳になんなんとして(明治二年六月生)なお政界の一惑星たる久原氏の言行をみても、当時は四十九歳の男の働きざかりで、且つ久原鉱業株式会社に一応成功した久原氏が、鉱業方面より更に造船製鉄事業にすすみ、世界的大工業都市の建設を夢みて下松工業都市を計画していたことは当然と考えられるのである。
第四章 計画の発表
前述のように大正六年春以来久原側によって慎重に計画され、六月十一日にはじめて地元の有力者堀正一氏、つづいて矢嶋氏に発表し援助を求め、土地買収等について斡旋を依頼したのである。
堀・矢嶋両氏は、六月二十日関係五ケ町村長を下松磯仲楼に集め、久原工場設置計画を発表し、敷地買収の件を交渉したところ、いずれも大賛成の意を表し極力後援することを申し合せた。これが地元民に公表された最初である。ついで各町村とも六月二十五日臨時町村会を開いたが、いずれも満場一致で可決された。当日の下松町会議事録を掲げると
議案第一号
工場設置ニ関スル件
大阪市久原房之助今回下松町及末武南村末武北村太華付大字栗屋ニ於ケル鉄道以南一帯ノ地ニ、造船場・船渠製鋼場・鉄工場設置ノ申込アリ。先レカ成立ハ本町発展上裨益アルモノト認ムルヲ以テ、其ノ事業ヲ速カニ完成セシメンガ為メ、本町ハ熱誠以テ之レヲ援助シ、地所ノ買入其ノ他諸般ノ事件ニ渉リ可及的便宜ヲ与フルモノトス。
大正六年六月二十五日提出
下松町長 剣持勝之
右ハ別紙発案ノ通リ、読会省略全会一致ヲ以テ可決セリ
と記されている。また当日は久原工場設置に関し臨時委員を置くことも決議され、町会議員及び有権者中より委員の選任も終っている。
六月二十六日各町村臨時委員は、第一回委員総会を開き、各委員連絡を密にし、目的達成に尽すため久原工場設立[一町四ケ村]連合委員会を設立し、事務所を下松中市(現在の福永鍼灸療院)においた。
連合委員会々則
第一条 本会ハ久原工場設置ニ関スル関係各町村臨時委員ヲ以テ組織シ、工場設置ニ関シテハ諸般ノ斡旋ヲ為スモノトス。
第二条 以下省略
本会総務として堀正一氏・矢嶋専平氏を推し、各町村にわたり理事評議員等の役員を選定している。
また、各町村には工場設置を後援するため後援会が組織された。
下松町後援会々則
第一条 本会ハ久原工場設置ヲ後援スルヲ以テ目的トス。
第二条 本会ハ久原工場下松町後援会ト称ス。
第三条 本会ハ本町民及ヒ有志者ヲ以テ組織ス。
第四条 以下省略
六月二十七日堀正一・矢嶋専平・上原乙治・中山説太郎の四氏は、谷都濃郡長と共に出山し、林県知事と会見し、土地買収其他万事の後援方を懇請し、快諾を得て帰松している。
こうして、短日時の間に県知事・郡長・各町村長・各町村会議員・臨時委員・後援会と工場設置に対する組織は一応整ったのである。
第五章 久原鉄工株式会社
一方久原側においては、如何なる計画のもとに事業が進捗していたかというと、笠戸工場史によれば
「工場用地の選定も終り、諸般の準備が進捗するに伴い、事務所を開設する必要を認め、大正六年七月大阪市東区北浜二丁目に久原鉄工株式会社創立事務所を置き、大阪鉄工所専務取締役木村瞭之助氏が兼任で創立事務を担当した。木村氏は将来下松町に開設される久原鉄工株式会社の社長として任命される予定であった。」
と記されている。従前は、前述の如く神戸市の日本汽船株式会社内で諸般の事務が行われていたのである。日本汽船も大阪鉄工所も、いずれも久原氏の関係していた会社であった。
木村瞭之助氏の名は、一切新聞紙上にも現れず、また連合委員会常務理事兼清常吉氏なども知られず、木村氏は一度も来松されなかったようである。事業の発端より計画主任として企画にあたったのは、日本汽船株式会社専務取締役中山説太郎氏で、度々来松し各方面とも種々折衝している。聞くところによれば、事業資金も日本汽船より出ていたようであり、後に計画が変更され、事業が久原鉄工より日本汽船に移ったことを考えると、久原氏と日本汽船との関係には注意すべきものがあると考えられる。
その外に、左の如く各方面にわたり着々と事業は進捗していたのである。
1 八月十六日、下松中島町に久原出張所が設けられ、主任斉藤冨次郎氏・小畑啓造氏・原清明氏等により事務を行う。
主任松田文治氏・笹島一郎氏等の久原測量部により、測量を開始した。
2 職員に造船に関する事務を実習させるため、大阪鉄工所に依嘱し八月十三日大阪鉄工所桜島工場へ五名、同因島工場へ九名の職員を派遣し、倉庫・材料計算・傭人等の事務を実習させた。
3 下松付近の電動力及び電灯供給の権利を取得している山陽電軌株式会社の実権を握るため同社と協定し、同社株式四万株中三万四千株を買収した。
4 資本金三万五千円の合資会社下松銀行を株式会社組織に改め、資本金壹百万円に増額し全額払込をなし、九月二十八日登記をなした。
5 材料及び機械購入のため左の人々を米国に派遣した。
船体の設計及材料調査 高木健吉
製鋼設備 小杉辰造
建築設計及材料調査 長谷川五一
購入諸機械調査 中原英一
諸材料機械購入交渉及契約 福島金馬
各種事務取扱 堀内靖也
6 国内において左記物品の購入契約をなした。
溝形鋼材 百拾屯
桜セメント 一万樽
土佐セメント 三千樽
手卦度レール 四哩半
板硝子 七万枚
7 前記材料並びに機械類は、大阪倉庫に保管を依頼する。更に、神戸刈藻島台湾製糖会社所属地一千坪を購入して仮倉庫を建てる。
8 大阪砲兵工廠に「ヘービーマシン」類の製作を依頼する。
9 工事の急速開始を期するに伴い、差当り必要な機械製作並びに造船工事の進捗に応じ、各種補助機及び艤装品類の製作工場と連絡を保つ必要があるので、松島鉄工所に資金を貸与しその設備を拡張させる。
10 土地の買収終了次第直に着手できるように、木造建の工場については図面仕様書並びに予算書の作製をなす。
11 社宅・合宿所其の他付属の学校病院等も、理想的な建築設備にするよう設計する。
実に世界的な工場並びに工業都市建設を目標とした尨大な計画が、着々として実施されていたのである。
第六章 土地の買収
第一節 第一次の買収
七月二日下松周慶寺において、関係四ケ町村の地主会が開かれ、土地買収が懇請されたのである。当日は谷都濃郡長も臨席し、左の談話を行った(防長新聞所載)。
(前略)斯の如き好機は、今回をおいては他に再び来る事或は之れ非ざるべしと信ず。関係地方民は幸福なり。今や地方民羨望の標的となり居れり。地主たる者は、宜しく久原家の買収に応ぜられたきを切望す。若し、当地方が久原家すらも円満なる買収をなすこと困難なりとする地方なりせば、将来何者の企業者も当地方に於て事業を興すことをなし能はざるべしというも過言に非ず。(中略)蓋し今次の計画こそ、地主諸君に対する公共心の試験なり。久原家は決して諸君に迷惑をかけざるべし。諸君は国家のために本郡のために、将又子孫のために茲に大工場と之に伴う大工業都市とを遺されたし。若し、夫れ従来所有せる田畑宅地が化して工業敷地となり、工業都市となるとも、決して職を失うの慮なし。工場のため又都市のために、格好の職業は必ず斎らさるべきを信ず(後略)
と、工場設置のため土地買収に応ずるよう極力奨めているのである。当時の山口県の状勢から言うも、下松地方の工業都市出現は山口県が将来工業県として立つ烽火であることを考えれば、この久原工場設置問題は、ひとり下松地方のみの問題でなく、山口県としても大問題であったのである。少し日時は遅れるが、十月四日の防長新聞は林山口県知事の談話をかかげている。その一節を抜粋すれば
山口県勢の大革新
久原工場の新設と本県の将来
林 知事談
(前略)この大工業地の現出は、我県経済の上に如何なる関係を有するやというに、農産一点張りの山口県に、更に新らしく工業関係を加ふる事となり、農工相並進して県勢を発展せしむる次第であるから、いう迄もなく本県の新紀元である。(後略)
と数千言を費し、縷々と久原工場新設に伴う本県将来の明るい県勢について述べている。実に全県民注目のうちに、買収はすすめられた観がある。
当日の地主会は、満場一致で工場設置歓迎の意を表し、左の決議をなした。
地主会決議
相当価格ヲ以テ土地買収ニ応スルコト。
相当価格ノ決定ニ就テハ、山口県知事ニ一任スルコトトス。
当日の出席者数、総地主四八一名中三九七名出席。
七月四日地主会代表者四名(堀正一・矢嶋専平・植杉佐武郎・国広八助)は県知事を訪問し、相当価格の件を一任し県知事は即座に快諾した。
大部分の地主が土地売却を承諾したので、七月十四日堀正一・矢嶋専平・谷龍之助外五名は久原氏に状況報告のため上阪した。携帯書類としては各町村の町村会々議録、久原工場設置予定地売却承諾書を持参した。
左に地主より出した売却承諾書(印刷)を掲げよう。
記
一、今般、都濃郡下松町太華村末武南村末武北村地内ニ工場設置セラルヽニ付テハ、該地域内ニ存在セル拙者所有ノ土地建物ヲ、相当価格ヲ以テ貴殿ニ売却異議ナキコト。
一、右相当価格ハ、山口県知事林市蔵氏ニ於テ評価委員ヲ設ケ、之ニ諮問シタル上決定セラレタルモノニヨルコト。
大正 年 月 日
右為後日証書差出候也
(署名)
久原房之助殿
第二節 第二次買収
上阪した委員に対し、久原氏は買収土地の拡張を申し出たのである。即ち、下松町柳堤以東寺迫に至る旗岡山以南一帯の地及び荒神山全部である。これによって始めて久米村とも関係を生じた。
この第二次土地買収のことは、七月十七日各町村関係委員会において発表され、七月二十三日第二次買収敷地に関係ある地主を周慶寺に招集し、買収承諾調印を懇請した。しかし第二次買収は、第一次買収のように順調には進行せず、後述のような波瀾を生んだが、一部の者はすでに翌二十四日には調印を終った者もあった。七月二十四日午後六時調の調査表を左に掲げると
久原工場設置用地全面積各町村一覧表 |
区分 | 第一回用地総面積 | 増補地総面積 | 計 |
町村別 | |||
下松町 | 一七九町九二〇八 | 一一六町五八一六 | 二九六町五〇二四 |
末武北村 | 一町〇四一九 | 三二町二三二七 | 三三町二八一六 |
末武南村 | 九七町三五一九 | 九七町三五一九 | |
太華村 | 三九町九三一〇 | 五六町八六一八 | 九六町七九二八 |
久米村 | 七町七一〇八 | 七町七一〇八 | |
久保村 | |||
計 | 三一八町二五二六 | 二一三町四〇〇九 | 五三一町六六〇五 |
久原工場設置用地ニ於ケル地主及建物所有者人員一覧表 |
区分 | 第一回用地面積内ニ於ケル総人員 | 同上ニ対スル調印未済者 | 増補地内ニ於ケル総人員 | 同上内ニ於ケル調印者 | 総面積内ニ於ケル総人員 |
町村別 | |||||
下松町 | 四六八 | 九 | 四〇〇 | 一二九 | 八六八 |
末武北村 | 一九 | 八八 | 六七 | 七五 | |
末武南村 | 一二二 | 三 | 一二二 | ||
太華村 | 三九 | 三 | 八四 | 三 | 一二三 |
久米村 | 二一 | 二十六日地主会開催ノ筈 | 二一 | ||
計 | 六四八 | 一五 | 五九三 | 一九九 | 一二〇九 |
備考 久米村総人員二一名ノ外ニ家屋ノミ所有者ハ取調中ニテ不詳。 |
この調査表によってわかるように、第一次の未調印者は六四八名中僅かに一五名であるが、第二次の場合未調印は五九三名中実に三九四名あって、買収の困難を思わせる。
第一次の買収は、鉄道以南であるため大体塩田が多く、又鉄道以南に田畑を持つ者も以北にも田畑を持つ者が多いので、全部耕作地を失う者はあまりなかったので、容易に調印が行われたと思われる。このため、七月二日の最初の地主会以来、約二十日間でほとんど全部が第一次買収に調印したことは、如何に当時の人々が熱狂的に工場設置を歓迎していたかを知ることができる。
だが、第二次の買収によれば、柳堤以東には下松町には全然耕地はなくなるのである。祖先以来何百年か土によって生きてきた農民も、第一次の買収に応じて以後日時の経過と共に理性をとり戻した人達は、容易に調印に応じなかったのである。事実、久原側もこうした点を恐れ、二回に分けて買収を申し出たのではなかろうか。
当時は下松郵便局長であり、元町長であった岩本五郎氏等三十一名(所謂三十人組といわれていた)率先反対を唱え、連署して久原房之助氏にあて陳情書を提出した。
それには「農民が田畑を全部失い、将来一粒の米一本の野菜までも買うようなことではいけない。また町の土地全部が買収されること、将来買収された土地に来住する外来者を繁栄さすようなもので、土地を失った在来の者は将来何等の恩恵にも浴せないことになり、町民のためにならない。第二次買収地の三分の一は下松町より求むるも、残りの三分の二は末武南北太華の三村に求むべきである。下松町全部の土地を手放すことは将来町民の不幸をもたらすので、絶対に反対する」と主張したのである。
農民の持っているものは土地以外にはない。土地を失うことは農民の滅亡を意味するものだと絶対に買収を拒否したが、中にはたとえ手離すとしても、この土地によって利を得られるだけ得たいと、地価の釣り上げの手段として反対した者もいたといわれている。また第一次のときの反対者の中にも、我々は工場を建てるためには土地を売るが、それ以外のためには土地は売らない。だから工場が建つときには売るが、建てる予定だから売れというのには応ぜられないと反対した人もいた。いずれにしても先祖伝来、土と共に生きた農民に、土地を手放さすことは容易なことではなかった。
この三十人組の説得には、種々な方法が採られたが、大勢は(岩本五郎氏の遠戚に当たる当時日本赤十字社山口県支部主事)磯部輪一氏の妥協案に応じた。八月十三日「設計ニ差閊ナキ限リ二反以内ノ宅地続キ地所ヲ残スコト」という口約を以て、調印を承諾したのである。
なお、この妥協案にも応じなかった者もあったが、これに対しては再三訪問勧誘をなし、また委員にて換地の心配をなすなどして、八月下旬には大体全部の調印を終った。しかし、このためには相当無理なことがされていたように思われる。買収一年後の大正七年十月十四日の新聞に「久原工場設置土地買入の際、祖先伝来の宅地は買収に応ずること能はずとて、相当の宅地交換を条件に調印をなしたる者少なからず」という事実をあげ、その交換宅地の約束不履行について村長にどなり込み、村長の不信を責めている事件をとりあげている。また買収に応じなかった強硬派に対しては、竹やりで襲うたという噂も現に残っている位、相当強力にあらゆる手段を尽して、買収が行われたように思われるのである。
第三節 買収価格の決定
八月中に買収の調印が完了したので、九月に入っては専ら買収価格の問題に移った。九月上旬各町村において評価委員が選定され、九月十一日評価委員の第一回打合会が開かれた。九月十二日評価委員堀正一氏外十三名出山し、県知事と土地評価について種々交渉したがなかなかの難航で、県知事は九月二十日より二十五日まで評価委員会に休会を命じている。このことについては、連合期成会庶務録には「要するに十二日より二十日までの諮問会は、下松町野心家の姦策のために、評価の遂行を阻害したり。玆に知事は感ずる処あり、五日間の休会を命じたり。」とその理由を説明し、また「この休会の間に、谷郡長・矢嶋専平氏・磯部輪一氏は下松町各部落に出張し、地主に一々懇切に説諭の上、諮問委員に一任する事に決定せり。」と記録されている。この件についての具体的な内容については、知悉することができないが、十三日以後十九日まで町会議員の集会がしばしば行われ、有志の山口への来往が頻繁であったことなどは、問題の重要さを物語っており、買収価格を引上げるため種々策動が行われていたと思われる。
九月二十六日、諮問委員会は再開され、十月一日には円満に解決したのであって
同日午后四時ノ汽車ニテ、諮問委員一同帰松ス。停車場ハ地方有志歓迎者ヲ以テ満サレタリ。
と記されているが、満足すべき価格で決定したものと考えられる。
翌二日、周慶寺において各相談役を集め、岩本五郎氏諮問委員を代表し評価決定の件を報告し、満場異議なく諒承した。買収価格は左の通りである。
田地 特等 一、二〇〇円 一等 一、一二五円 二等 一、〇八〇円
三等 九九〇円 四等 九〇〇円 五等 八一〇円
六等 七二〇円
畑地 一等 三九〇円 二等 三二五円 三等 二六〇円
四等 一九五円 五等 一三〇円
宅地 一等 六、五〇〇円 二等 三、九〇〇円 三等 三、六〇〇円
四等 二、六〇〇円
準宅地 二、〇〇〇円
塩田 甲 乙 丙
一等 九三一円 八七五円 八五一円
二等 八二九円 七六九円 七三〇円
三等 六八九円 六一二円 五四〇円
四等 四六八円
釜屋敷 三八円
備考
一反歩当価格ノ外ニ一戸毎ニ金二百円加算ス、本表価格ノ内慰安料ソノ他割増金ヲ含ム
なお、この時に久原側より第二次買収地の大部、即ち荒神山能行寺迫側の、畑地柳土井以南の田地東豊井の山林等を、買収より削除することを発表した。
十月二十四日登記書類全部完了し、二十七日より本登記に着手したのである。
地上物件の移転についての移転料は、十一月二十四日第一回久原工場買収地上物件評価委員会を都濃郡役所に開き、大綱をさだめ、十一月二十六日第二回の委員会で決定した。その大略は、移転を要するものは家屋の外、井戸樹木等にもすべて移転料を給する。移転料は前以て移転承諾書と引換に渡し、移転は久原側において必要と認めた際二ケ月以前に通告する。建物移転料は、現在建物と同種同質の新材料を以て、現在建物と同様のものを新築するに要する一切の費用を、仮りに現在建物の評価価格となし、之を移転料としたもので、外に現在の建物はその所有者に無料で給する方針で算出する。
移転料一坪当り標準額は次の如し。
藁葺平屋 二十九円五銭五厘
藁葺附き平屋 三十一円十五銭五厘
瓦葺平屋 四十二円七十一銭五厘
二階建 六十五円十銭
田畑の小作権といったものは認められなかった当時のこととて、買収代金は全部地主の所得に帰し、小作人には何等の恩恵もなかった。併し、工場及び社宅等が建設されるまでは、不要の田畑は以前の地主、又は小作人が久原用地部の小作人として耕作を続けてゆくことが許されたのである。工場及び社宅の敷地となり、離農した人々の生活については、表面にあらわれた問題は何等見られないが、左記の願書にみられるように、内部には相当問題をはらんでいたと思われる。
大正六年十月二十二日、末武南村々会に提出された「笠戸島字野山の村有林払下願」に
(前略)該工場ノ敷地トシテハ一町四ケ村ニ跨リ、下松町は殆ンド全部ヲ之ニ提供シ、他ノ四ケ村トモ大分ノ提供ヲ要スレバ、一町四ケ村何レモ農業本意ヲ主トスルモノニシテ、買収ニ応ゼラルヽ地主ニ於テハ、相当ノ代価ノ収入ヲ見ルモ、爰ニ悲痛ナル無資産タル小作人ニ於テハ、尤ヨリ出業ニ依ル収入ハアルト云ヘトモ、大部分ハ其ノ天職ヲ打チ捨テルヲ非常ニ憂慮セルト、同時ニ工場設置ニ関シテハ何等財産トナルベキ金銭ノ授受ハナク、一時生活上将来ヲ歎カザルヲ不得、是等悲痛ナル無資産者ノ救済ハ目前ニ迫リ居レバ、急々該林野ノ払下ヲ乞ヒ、畑地ニ開懇シ、耕作ニ於テハ改良ヲ加ヘ、専ラ蔬菜ヲ作リ市場ニ売出シ、相当収入ヲ実現サセタク、一方他県ヨリノ輸入ヲ防止スル目的ニシテ、ソノ根本義ハ全然救済ヲナスモノナリ。
勿論幾分誇張されていると思われるが、離農した小作人の問題には、考うべきものがあったと思われるのである。
第七章 日本汽船株式会社
以上のように、土地の買収は短日月の間に概ね順調に進捗していたが、一方久原鉄工株式会社の事業計画は、如何に進展していたであろうか。
造船製鉄業に最も必要な鉄材の補給について、米国政府は大正六年七月布告を出し、交戦国と中立国との別なく、その輸出は特許を要することを声明し、その取締は漸次厳重を極めていたが、遂に九月二十八日鉄の輸出を禁止したのである。これは我が造船業者にとっては、致命的な大打撃であった。ことに世界的な大造船製鉄工業都市建設の計画のもとに、事業もその緒についたばかりの久原鉄工株式会社にとっては、将来如何になすべきか全く大問題であった。
遂に従来の計画を変更し、久原鉄工株式会社は事業を開始するにいたらぬままに、日本汽船株式会社にゆずることになった。日本汽船は、事業を極めて小規模にしてこれを継承することになり、日本汽船株式会社笠戸造船所として再出発することになった。所長としては、川崎車輌株式会社車輌課長古山石之助氏が就任された。時に大正六年十月のことであった。
改組後の笠戸造船所の新経営方針を笠戸工場史より掲げると、
造船工場ハ、当分重量五千噸迄ノ船舶建造ニ支障ナキ造船造機ノ設備ヲナシ、建築物ハ現在仮工場トシテ着手中ノ範囲ニ止ムルコト
本船台ニ 仮船台三ヲ標準トシ、船渠ハ後日経費ノ都合ニヨリ一箇ヲ設備スルコト。船舶建造方針トシテハ、今後一ケ年半ノ間ニ於テ、先ツ左記船舶ヲ建造スルモノトス
甲 載貨重量噸数千八百噸 四隻
乙 仝 三千五百噸 三隻
丙 仝 五千噸 二隻
右以後ノ計画ハ、更ニ他日の状況ニ応シテ決定ノコト。
千八百噸型三隻ニ対スル材料ヘ至急ニ蒐集シ、明年初ヨリ工事ニ着手スルコト。
他ハ設計ノ進捗ト共ニ購入手続ヲナシ、一面現在千八百噸型三隻ニ対スル汽缶ハ、伏田鉄工所ト契約中ノモノヲ用ヒ、其他ハ設計ノ進捗ト共ニ新工場ニ於テ製造スルコト。
左記ノ建築契約ヲ大林組ト締結ス。
職工合宿所・職長及職工社宅・職員合宿所
内外国共注文品ハ、現在到着又ハ発送通知アリタル以外ノモノハ、到着セサルモノト見做シ、最低限度ノ設備ヲ定メ、不足分ヲ注文スルコトニ決ス。
現方針ニ対シ過大ト認ムル契約ハ之ヲ変更シ、購入品ハ之ヲ整理ス。
右の経営方針を見れば、大略当時の事業状態を推察することができよう。ただここに問題となることは、こうした経営体の異動及び事業の縮小が外部に発表されず、地方民は依然として以前と同じように世界的な大工業都市の実現を夢み、また土地の買収にも応じていたと思われるのである。この経営体の変ったことが地方民に分りはじめたのは、約二ケ月後の十二月頃かと思われる。
十二月二十日の下松町会に町長提出の諮問案として
諮問第一号
公有水面使用ノ件
下松町大字東豊井字宮ノ洲東海岸
一、海水面面積 二百十坪五合一勺
一、使用期間 許可ノ日ヨリ満二ケ年
但 仮桟橋三ケ所設置ノタメ使用
右神戸市播磨町十七番日本汽船株式会社専務取締役中山説太郎ヨリ使用出願ニ付、支障有無ニ付町会ノ意見ヲ諮フ。
大正六年十二月二十日
下松町長 剱持勝之
意見答申草案
意見答申書
神戸市播磨町十七番日本汽船株式会社専務取締役中山説太郎ヨリ出願セル本町大字豊井字宮ノ洲東海岸公有水面使用ノ件ハ、漁業ニ関シテハ妨ケアルモ、其ノ他ニ於テハ支障無之モノト認ム。
右答申候也。
大正六年十二月二十日
下松町会議長
下松町長 剱持勝之
右諮問案は、「提出者ニ於テ徹回セリ」と付箋が付せられている。これは、町会の反対空気を察し徹回せられたのであると思われる。この時の町会で「工場名称ニ関スル建議ノ件」が議せられ、左の建議書が決議されている。
建議書
今般久原房之助当下松町ヲ中心トシテ一大工場設置ニ付テハ、ソノ影響当町公益ニ資スルコト大ナルヲ以テ、本町会ハ曩ニソノ事業ヲ援助スルタメ、諸般ノ事件ニ渉リ便宜ヲ与フルコトヲ決議セリ。然ルニソノ工場ノ名称本町ニ何等関係ナキ笠戸ノ地名ヲ冠スルハ、当町ノ面目ヲ没却シ、将来ノ発展ヲ阻害スルモノナリ。宜シク事情ヲ具シテ再考ヲ促シ、本町ノ名誉ヲ失墜セサル様御取計相成度シ右建議候也
このように、町会は工場の名称に不満をあらわしているが、現在下松第一の大工場である笠戸工場に下松の地名がないのは、下松のためおしいことである。
前述の諮問案は大正七年一月二十三日の町会に再び提出されたが、左記の通り意見が答申されているのである。
意見答申案
本町ハ曩ニ大阪市久原房之助下松造船所船渠及鉄工製鋼所設置ヲ歓迎スルノ決議ヲナシタル事ナレハ、公有水面使用方出願ハ同人ニ於テスヘキ筈ナルニ、日本汽船株式会社カ笠戸造船所ヲ設置スルニ対シ、公有水面使用ヲ出願スルハ不穏当ト認ムルノミナラス、本町地先唯一ノ漁業場タル該箇所ニ構造物ヲ設置スルハ、漁業上ニ関シ大ニ妨害トナルモノト認ム。
右答申候也。
大正七年一月二十三日
下松町会議長
下松町長 剱持勝之
工場名称に関する建議書及びこの意見答申書を読めば、久原房之助氏の久原鉄工株式会社より、日本汽船株式会社の笠戸造船所に経営が移ったことに対する町会の不満が感ぜられるのである。
第八章 工事の開始と下松地方の活況
十月末登記書類も完了し、人々は工場建設の日を待ちわびていたが、遂に十一月七日大林組の請負で造船工場起工準備のための人夫収容所材料倉庫の地鎮祭が行われ、工場建設の第一歩は踏み出されたのである。
同日の新聞は、この地鎮祭の模様を伝えると共に、「下松の白雀、地方発展の吉兆か」の見出しで、「下松駅付近より小学校近傍に亘りとびかふ雀の群に一羽の白雀がいた。久原工場新設のため下松地方大発展の吉兆ならんと喜び居れり」と掲げているが、全く当時の町民は、工場建設に対し夢のような喜びを抱いていたのである。今まで一漁農村にすぎなかった下松が、世界の下松になるのだという期待に、茫然自失している当時の人々の気持が感ぜられる。
もし報道者が、下松の地名伝説に興味を持っている人であったならば、この白雀の吉兆をもっと神話的な物語「七星降臨の聖地鼎社に白雀舞い下松の繁栄を寿ぐ」とも記したであろうか。
七星降臨によって下松の起源ははじまったのであるが、この日はたしかに第二の下松の起源となるべき日であり、少なくとも今日の工業都市下松はこの日に誕生したといいうるであろう。
この日以後の下松地方は、正に未曽有の活況を呈した。市中は土地家屋の思惑買、店舗の新設拡張さかんに行われ、従来十数円の家賃は五六十円に暴騰し、他地方人の入込多く、当時の新聞は次のような記事を掲げている。
目下宮の洲土工場に於て工夫に売る餅は、初め下松地方在来の餅屋之を供給し居りしが、今や大阪方面の餅屋来りて開店し、饀の質に於て又餅の製法と外観の美に於て、全く地方在来の餅屋を駆逐し去れり。之と同様の実例は、下松地方には従来曽て焼芋屋なる物なく、土工が比較的安価にして且つ味よき点に於て、焼芋を希望するを観取し、下松町に焼芋屋を開店せしは実に大阪下りの商人なり。此の如きは一小実例にすぎざるも、都会の商人は機会を捉ふるに機敏にして、よく時機を察し、之に策応して相当の利益を得つゝある事、現在に於てかくの如くなるべし。地方民が発展 と狂気しつゝある間に、発展に伴ふ実利は多く他地方人の手に獲得せられ了らば、地方民の狂気せし発展は何等幸福ともならざるべし。願わくば冷静にして機会を捉へて之を利用せよ。
と報じ地方民の奮起を捉している。
十一月中旬頃よりは、登記の終った土地には代金の支払を始めたが、二十三日の新聞にはその模様を次のように伝えている。
久原買収地の約半数は、既に登記と同時に下松銀行にて買収代金の交付を了したるが、平均約八割は預金して、二割は現金を待ち帰りつつあり。八割の預金は各銀行競争にて外交員を派し、戸別勧誘をなさしめ争奪戦の盛んなること、宛然今春の代議士選挙当時の如し
とあるが、遂に十一月十八日には地主を集め、剱持町長・都濃郡長・矢嶋専平氏等は、土地代金の運用について注意を喚起している。
当日の矢嶋専平氏の講演として、左の如く報じている。
自分は久原家事業紹介者として、此際是非とも諸君の注意を望みたきは買収金の処分方法なり。新聞紙の報ずるところによれば、九州の或地方の如きは、工場敷地の買収に応ぜし地主は、何れも思ひがけざる現金を手に入れし結果、之を浪費し、又は軽卒に事業を目論見て放資し失敗せる者あり。就中地方の一大地主の如きは、今や全く失敗のドン底に陥り、妻子は日夜泣き暮すの悲惨なる状態にありと。この地方に於て、万一将来右の如き事実ありとせば、自分としても諸君に申訳なき次第なれば、何卒急がず騒かず、着実穏健なる仕事を選択し、買収金の活用を計り、子孫の長計をたてられたきものなり。
いずれにしても、他より入込む人も次第に多くなり、土地代金は入り活気は町に溢れ、正に下松は歓喜の頂上にあった。
十月に経営は日本造船に移り、事業は縮小されているが、一般地方民にはそうした事情は分らず、工場建設の鑿の音は世界的大工場への夢の実現の音と信じていたのであるが、実は最初の計画の何分の一かの工場建設へ縮小されていたのである。そうした事実は、十二月に入り一般地元民及び工場勤務者にも、次第に分って来たのであるが、こうした一般の不安に対して、十二月末に笠戸造船所大山所長は工場勤務者に対し左の如き訓示をしている。
我工場規模ノ縮少セルハ、一ニ材料ノ関係ニ依ルモノニシテ、決シテ理想ノ目的ヲ放棄シタルニアラス。将来時運ノ進展ニ伴ヒ、東洋一世界一ノ工場タラシムヘキ大理想ト抱負ヲ有スルハ勿論ナリ。今ハ小ヨリ大ニ進ムヘキ目的ヲ以テ、予自ラ重役ニ乞フテ極メテ小規模ノ設備ニヨリ、事業ニ着手スルコトトセリ。諸君ハ此真意ヲ諒セラレ、勇往邁進ノ元気ヲ以テ、工場ノ発展ニ努力セラレンコトヲ望ム。
しかし、最初の計画に比すれば、小なりといへど五千頓迄の船舶建造のできる造船所である。大正六年年末迄には、職工も続々来松したのである。
一月には、呉鎮守府司令官加藤定吉中将一行七名が視察のため来所したが、造船所の建設も次第に世人に注目されるようになった。
各工場の建造物は、大体一月中旬に竣工したので、二基の仮船台を設置し造船に着手したのである。
第九章 造船事業の中止
米国の鉄材禁輸について、第一回の船鉄交換問題は解決し、大正七年初頭は漸く造船界は余命をつないでいたが、第二回の船鉄交換については絶望の状態であった。鉄材のない造船業は勿論成立しないのであり、また当時の好景気の源泉であった欧洲大戦も、大体終結の見通しがつく時期であったので、笠戸造船所はここに断乎造船事業の中止を発表したのである。当時の状況については、笠戸工場史によると、
米国鉄禁輸ニ対スル船鉄交換問題未ダ解決スルニ至ラス、当所カ曩ニ購入契約ヲナシタル材料機械ノ類ハ、米国政府ノ徴発スル処トナリ、我カ計画ノ実行困難ニシテ、前途ノ成算ヲ予期スル能ハス。此時機ニ於テ、既集ノ材料ヲ以テ造船工程ヲ進メンカ、仮令少数ノ船ヲ造リ得ルモ、早晩難関ニ遭遇スルコト当然ナリ。若シ然ルトキハ、雇傭職員職工ヲ如何ニスヘキヤノ問題ニ逢着セリ。故ニ此際未タ準備ノ整ハサル初期ニシテ、且ツハ斯業界ノ盛況時ニ於テ、断然造船ヲ中止シ、人員ノ処分ヲ安全ナラシメ、設備ヲ変更スルノ賢ナルニ若カストナシ、其方針ヲ一変スルニ決ス。
事業方針ノ変更ニ基キ、造船職工ノ内四十二名ヲ整理ノ為残務セシメ、先ツ職長以下三百十三名ヲ解雇スルコトニ決シ、工場長ヨリ事玆ニ至リタル状況ヲ説明理解セシメ、解雇職工ハ大阪鉄工所因島工場ニ採用ノ交渉成立シ、大部分該所ニ送致スルコトトセリ。
因島工場ヘ転勤職工ハ、十二・十三・十四日ノ三日間ニ於テ、毎朝七時廿九分列車ヲ以テ輸送ス。
右のように記されている。三月十二日の防長新聞は、当時の状況を左の如く報じている。
米鉄禁輸問題は本邦の造船業に大打撃を与え、久原家にても遂に之がため造船業の経営を一時中止するの方針をとるに至りたる結果、下松の日本造船所にては、今十一日限り造船所を閉鎖する旨発表し、職工の一部及これ迄蒐集したる材料は之れを因島工場に移すと共に、大部分の職工は凡て十・十一日に亘り解雇し、又目下請負たる大林組その他に於ても、人夫を始め関係者を解雇したれば、これ等のものは全く寝耳に水の有様にして、大混雑を極め、続々として行李を携へ他地方に向ひ立ち退くを以て、下松駅は上下列車毎にこれ等の職工人夫を以て混雑を呈しつゝあるが、之がため久原の工場に種々の望みを嘱しいたる町民等も、亦全く失望の淵に沈み、意気全く消沈するに至れり。
三月十四日の新聞は引き続き左の如き見出しのもとに報道している。
「造船中止と下松
土地買収仲介者の無責任」
これで報道されていることは、大体町民の声を報じたものであるが、要約すれば
1 久原氏の経営と信じていたが、日本汽船の経営であった。
2 下松は久原氏の発祥の地ではない。
3 厖大な計画も土地買収のための手段であった。
4 矢嶋氏の失言「事業が中止されたりとて驚くほどの事はなかるべし。予に於ては土地のみの事に関し奔走せるにすぎず。工場の事は何等関知する処なし。又之が廃止についての善後策は、何等考慮し居らず」
最後の矢嶋氏の言については、誇張されていると認められる。しかし、町の発展を信じ、祖先伝来の土地家屋を手放した当時の人々の気持ちとして、畢竟矢嶋発言に対しては土地買収のための詐言であり、芝居であったと一途に信じ込んだ農民の心情が、新聞紙上に反映していると思うのである。
しかし、古山所長の造船所中止の英断に対しては、先見の明のあった人だと、今にいたるも有識者の間で称えられている。
職工の解雇が終り、造船部の事務整理も終了したので、職員の解雇(解雇者四十六名、残留者四十五名)を行った。その留送別式が行われたときの模様並びに古山所長の挨拶を、笠戸工場史より抜粋すると、
造船ヲ中止シ所員約半数離散スルトキ、一堂ニ会シテ訣別ス。去ルモノ交々立ツテ理想ヲ裏切ラレタリト憤恨ノ辞ヲ以テ挨拶ヲ述ベテ、中ニハ落涙スルモノアリ。此時古山工場長ハ造船中止ノ理由ヲ述ベ、且曰ク「総テノコト皆運命ナリ。進ンデ船ヲ造ルモノガ勝利ヲ得ルカ、造船ヲ中止シ退イテ孤城ヲ守ルモノガ不成功ニ終ルカ、将来ノコト軽々シク予断シガタイ。進ンデ船ヲ造ラントスルモノハ去レ。退ヒテ孤城ヲ守ラントスルモノハ此処ニ止マレ。運命ニ委シテ最後ヲ善スノ外ナカラン」ト。止マルモノハ、此工場長ト共ニ運命ニ従ハント決心セリ。
当時の悲痛な状況が眼前にみえる心地がするのであって、今日の笠戸工場の隆盛をみるにつけ、苦境にあった当時のことを偲び、感慨無量なものがある。
この造船所中止の責任を感じ、三月十五日剱持町長は辞表提出したが、町会は辞職を認めず、留任を決議したのである。
こうして一時活況を呈した下松は、急転直下寂れてゆくことになったが、工場幹部の当を得た処置により造機工場として更生し、大正七年四月十四日の新聞はすでに造機工場としての完成も近いことを報じている。四月二十二日には、事実大阪鉄工所因島工場より大量の機具の注文を受け、事業は漸次立ち直り、はじめて町民も愁眉を開く有様であった。
ついで大正七年には、笠戸島造船所・大蔵省再製塩工場の設置も相つづいて起り、市中は造船中止発表当時の寂寥は消失して活気を呈し、以後日本石油下松製油所・東洋鋼鈑下松工場の設置をみ、下松は工業都市として発展の一路を辿り、今日に至ったのである。
なお笠戸造船所は、船舶関係の造機工場と共に、大正八年よりは機関車の製作も始め、漸次機関車製作に移行し、大正九年六月二十二日鉄道省の指定工場となり、全国有数の車輌工場と順調に発展してきた。しかし、本社日本汽船株式会社は、欧洲戦乱終了後の船腹過剰の波にあおられ、経営不振となった。そのため、笠戸造船所の買取を日立製作所に申し入れ、大正十年二月四日を以て遂に日立製作所の付属工場となり、古山所長が初代の工場長となった。同年五月一日株式会社日立製作所笠戸工場と登記し、正式に日立製作所の諸規程に従うこととなり、現在にいたるまで五月一日を以て、笠戸工場の創業記念日として祝っている次第である。
第十章 其の後の問題
工場の経営は、久原鉄工株式会社から日本汽船株式会社に移ったのであるが、買収の土地はやはり久原氏の久原用地部の所有であったことより、一部の人々よりは久原氏は工場を建設するのが目的でなく、始めより土地の買収が目的であり、土地ブローカーであったのだと言われていたのである。
ことに末武南村は、工場用地のためとして土地の買収に応したが、何年経つも工場は建設されず、村民は工場を建てるために土地を売ったのである。そのため、村民は工場を建てなければ土地を還せと、土地返還の運動を執拗に続けたのである。
この運動のため、末武南村には土地を買収された地主達によって、久原工場用地被買収者共済会という団体まで出来、この運動の主体となっていた。会員は四十名であったが、南村の有力者を網羅し、村よりも毎年補助金が支出されていた。これは大体この運動費に当てられていたようである。
大正十年頃、久原氏は台湾銀行より久原用地部の土地を抵当にして六百万円借りたが、そのためこの土地返還問題は一層困難な問題となり、昭和十年には末武南村より村会議員及び有志等十名上京し、在京七十余日にわたって返還を交渉したが不成功に終った。
一方久原用地部としても、末武南村に工場誘致をするため相当尽力したのであって、末武川下流の塩田に石油会社をつくるようになっていた。しかし、突然その石油会社に関係していた主な外人が死んだため取止めとなり、また西市裏(日石球場付近)に日石が末武製油所をつくるため、すでに埋立も終っていたが、大東亜戦争により重油が思うよう入らなくなったため、中止になったのである。
大正八年十一月、久原房之助氏が創設費として三十万円を寄付し、只今の下松工業高校が創立された。これは、久原氏が予定の通りに工場を建設することができなかった謝罪のためであるといわれ、また南村にたてられたのも、特に南村に対する深い謝罪の気持ちがあったと思われるのである。
久原用地部としては、工場用地として土地を買収し、また地元民も買収に応した関係があるから、用地部の土地は一切家屋建築等のため個人には売却しなかった。そのため下松は市街地が拡がらず、市街地としてはあまり発展しなかった。しかし工場誘致の際には、工場用地は全部久原用地部の所有であり、また用地部としても工場誘致に非常に熱意を示していたので、その点非常に好都合であったと思われる。このことは、日本石油下松製油所・東洋鋼鈑下松工場誘致の際にも、よく認められるところである。
(昭三一・一、第一輯)