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1 豊井村の地名について

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 下松の地名については、古来より『鷲頭山旧記』による尊星降臨説と、百済との交易による百済津(くだらつ)説がある。前者は「人皇三十四代推古天皇之御宇三年(一二五五)九月十八日、周防国都濃郡鷲頭庄青柳浦(わしづのしょうあおやぎのうら)松樹大星天降而七日七夜赫々而不絶輝」によるもので、以後降松と名づけられたと言われている。後者は百済国との交易が頻繁で、その港に当たったので百済津と言い、後に下松と言うようになったと言っている。
 降臨説については、降臨の場所と言われる鼎(かなわ)神社の所は、推古(すいこ)天皇の時代は考古学から考えても海中であって、まだ陸地になっていない。
 百済津説については、そのように百済との交渉が密接であったとすれば、今少し地名等にも百済の影響が残っているはずであると思う。いずれの説にも納得ができない。
 私は下松は「くたまつ」よりおこると思う。「くた」は湿地、「まつ」は船着場、港の意があるので、「くたまつ」は「湿地にある船着場」の意から出ていると考える。このことについては、『日向記』に
 「貞和四年(一三四八)戊子八月、祐凞日向下向の時、周防くたまつの沖にて、悪風俄に吹来て、御船忽にくつかへり失玉ふ」
とあって「周防くたまつ」と出ている。その後、今川貞世の『道ゆきぶり』に
 「やがて其暁風よくなりぬとて舟いでて、日のうちに周防のくた松といふところにつきぬとかたられし事を、ふと思い出て侍りしほどに云々」
ここには「周防のくた松」となっている。また今川貞世の『鹿苑院殿巌島詣記』には
 「にゐの湊こぎ過て、くだ松といふとまりにつかせ給ふ。大内左京太夫はここにぞ参りためる、御旅のかれ飯みきなどさまざままいる、
  また乙女してはたをらぬくた松も浪の白糸よりやかく覧」
とあって「くだ松」と出ている。このように「くたまつ」「くた松」「くだ松」となり『鹿苑院西国下向記』には
 「下松といふ所へとく御入あるへきよし被仰出間云々」
とある。なお『日向記』については考証を要するが、他の書はみな確実な史料である。
 このように下松は「くたまつ」即ち湿地にある船着場、港の意であった。『古事記』にいう豊葦原瑞穂国にも比すべき、米と塩に恵まれ運航に便な下松であった。
 「くたまつ」といった時代もあったが濁音(だくおん)となり「くだまつ」となった。これは各地でみられるので北陸の「金沢」も「かなさわ」といった時代もあったが、今は「かなざわ」という。これは口調(くちょう)の関係ではなったかと思う。陸奥の福島は「ふくじま」といったときもあったが、今は「ふくしま」といっている。濁音(だくおん)、清音は時代で口調(くちょう)の関係によったと思われる。
 この湿地帯が、鷲頭氏によって「かのう社」を中心とした大土木事業によって開発されたのである。文治年間の鷲頭出作保がこれに当たる。「かのう」は加納の意で追加開墾の意である。主たる荘園が既に十分開発した後に、付近の山野を拡張開墾する場合に出された追加開墾特許状のことである。鷲頭出作保は、鷲頭氏が本領を出て行き開墾した保である。また、「かのう社」は「かなわ社」にも当たり、上縄のことであるともいう。
 鷲頭氏がこの地を開発するに当たり、鷲頭氏の守護神である妙見社を勧請したのである。近くに「神田堤」の地名があるが、神社を維持するために必要な経費を奉る田であり、「たやかいち」の地名は、開墾地の管理人の住所のある所である。また、田と名付けられた数多くの地名が生れたわけである。
 『慶長検地帳』には浜数一丁七反一畝、塩屋十二ケ所とある。こうした新開発地による米と塩の生産は、鷲頭氏の一戦力となり、鷲頭長弘の時代は周防の守護として勢力を振るったのである。
 当時の鷲頭氏の住居は、どこであったであろうか。私は豊井の地であったと思う。現在の豊井小学校運動場に接した地であろう。中村の地があるが、これは豊井の真中の意であろう。また、天王本・蔵免の地がある。近くに妙法寺・万福寺・正立寺(現在は浄土真宗であるが昔は他の宗旨であった)があり、土地を守護し病気を防ぐ祇園牛頭天王社も付近にあり、現に豊井部落神として祀られている。大内氏も祇園社を崇い、大内家第一の守護神として祀っている。ここ豊井の地は南向きの丘陵地で、水も豊かで最も住居に適した土地である。鷲頭氏はここを本拠として豊井村を漸次開発し、下松全域が豊井と言われるようになった。
 降臨説によれば、「推古天皇三年(一二五五)九月十八日の夜、尊星降臨」とある。古来より星辰崇拝の民であり、妙見尊星を信奉した百済の渡来民が、満天星をちりばめたような仲秋の夜空を見上げたとき、尊星降臨を信じたことは当然なことと思う。九月十八日は、名月に続く美しい星の夜である。こうして下松の伝説は生れ、ついで当時七坊を有していた妙見社の多くの学僧達によって、下松の史実として著されるようになったと思う。
 当時の豊井村の地勢については、「旧豊井村の地名の研究」に大略述べている。
 その後の研究の一端を述べたい。
 豊井村と隣村の末武村との境は、豊井村は切戸川の灌漑区域であり、末武村は平田川の灌漑区域で、その区分は極めて明瞭である。一方東西豊井村の境は複雑で、村境が入り交っている。
 『地下上申』に
 「但当村之儀、往古豊井村と申在所ニて、其後庄屋二人ニ相成たる由、東西と申のよし地下人聞伝たる由ニ候事」
とあって、豊井村の区域が広くなり、庄屋が二人になったため、分割され人為的に分けられたと思われる。そのため明治二十二年三月、東西豊井村が合併して豊井村となったが、その当時「豊井が一つになったといや、うれしいのう、うれしいのう」と人々に囃されたという。これによっても、長い間東西豊井村に分かれ不便であったことを、住民は感じていたのである。
 豊井村について現在に残っている最も古い『元和三年(一六一七)四月の防州都濃郡豊井村打渡坪付』(慶長検地帳という)には当時の地名・石数・人名が詳しく載せてある。その地名を群ごとに分けてみると
1 河原 河原田 土居河原 こいかわら 岩崎河原
2 石丸堤 内堤 堤田 中堤 現堤 外堤 神田堤 小堤 丸毛堤
3 田久塩入 磯地塩入 塩入 磯ふち塩入
4 近藤垣内 酒や垣内 三蔵垣内 外垣内 花垣内 堤垣内 とうねん垣内 原垣内 ほうさかいち 又二郎垣内 南垣内
5 後迫 江迫 おく迫 風呂迫 迫田 西ケ迫 池迫 そうか迫
6 畠田 さこ田 熊がわ田 ふしや田 中ノ田 三町田 神田 大ノ田 堤田 神田堤 はつ田 仏借田 築地ノ田 下山田 つく田 河原田 山ノ田 神真田 田中 田久塩久
 右の地名をみても、当時の開発状況が分かる。
 「土居」はもと切戸川の「かわら」であったのが、土居河原となり土居となり土井になったと考えられる。かわらに土居をつくり、水害の備えにしたのであろう。土居の地名が使われるようになったのは鏡味完二氏によれば鎌倉時代(一二〇〇年頃)であると言われている。この頃は、下松の形成時代である。
 現在、都町に居住され、昔、土居にすんでいられた土田氏の言によれば、土田家の裏に土の土塀の壊れたのがあったと話されたが、昔の土居の名残ではないかと思う。
 当時、河原に十六軒の家があったが、そのうち三軒は相仁右抱とあり、三軒は相仁右内とある。相仁右の家に居た者が家をつくり、独立し抱人となって働いたのであろうか。そのほかに相仁右内五人、相仁右抱が六人いた。これは家を持たない者である。なお、相仁右抱と相仁右内の差異については疑わしい点があるので、今は確言できない。後日の研究に譲りたい。
 こうしてたくさんの抱人の力によって開発が行われた。なお相仁右とは相本仁右衛門の略ではあるまいか。現在、柳部落に相本家が多数あるが、相本家の大祖先ではあるまいか。
 次に、『慶長検地帳』での大地主として御座の加兵がいる。同家は田十四筆一町六反二畝二十歩、畠十一筆一丁二反三畝有し、抱人が二人いる。地名には御座の地名がないので、これは肩書きを表わした尊称であろう。
 当時の庄屋二郎三郎は土井に住み、田五筆四反八畝十歩、畠一筆七畝、抱人が一人いた。
 土居と共に古い地名に、垣内がある。垣内については前述のように『慶長検地帳』に多数出ているが、鏡味完二氏はこの垣内地名群を大和時代中頃(三〇〇~六〇〇年)としておられる。土居が周囲に土居をめぐらしたように、垣・壕を巡らしていた。豊井村には現在、垣内の地名は一つも残っていないが、花垣が端垣内の名残りかと考えられる。
 土居・垣内より年代は下がると思われるが、現在も多数残っている地名に堤がある。堤は土積の意であろう。多くの堤の地名の現存により、その地が開発された地であることがわかる。
 また土井地域の開発に伴って樋がつくられたため、樋の上の地名がある。樋は、原田歯科医院の下にもあったという。
 こうして森崎より下の切戸川の流域は、土居・堤によって開発されたのである。これらの所在地の位置等について分からぬ点があるが、これは後日の研究に譲りたい。
 次に『慶長検地帳』に記された当時の人家について考えてみると次のようになる。
慶長検地の屋敷数調
地名戸数地名戸数地名戸数
河原(田)16いそふち2すみ1
9大みとり2豊井1
岡尾8かと2あつめ川1
井の上7寺の前2なきり1
そうか迫7所田2の地1
中村7東光寺21
能行6中や21
かた山5ほうさかいち2ふしや田1
寺迫5宝林寺2ゆの上1
下山田41横道1
あいかれ3あみたか迫末貞1
大畠3いの木1138戸
くまの前3江口1
高原庵3大谷1下松東市(浦)139戸
ちくしゅめん3おく迫1
といたかれ3神三田1 
松の口3下松1
2近藤垣内1
岩崎2散使給1
 慶長検地は、毛利氏がはじめてお国入りをして防長二国を検地した最初の検地である。その後たびたび検地(寛永検地、宝暦検地等)をした。

 これでみると、当時の人家はかなり散在していたことが分かる。
 『慶長検地帳』の寺院について、当時現存していた寺院は左記の通りである。
慶長検地帳の寺院
寺名寺識寺領場所
霊昌寺二反七畝田一畝 山畠五畝寺の前
妙法寺八畝田四反六畝二十歩豊井中村
利済庵四畝田二反一畝二十歩 山畠一畝十歩岡の尾
地蔵院三畝田六畝 畠六畝二十歩あいかれ
道場二反四畝 下松
大蓮寺八畝 東市
普門寺三畝二十歩 東市

 右の道場とは、西福寺をいったものである。寺領として、田七反十畝・畠四反五畝十歩あった。また、西福寺の助二郎、西福寺の吉二郎とあるのをみると、抱人もいた大きな寺院で、当時大内氏の庇護の下にあり下松道場といわれていた。下松は、正福寺の門前町として発展したのである。
 当時すでに廃寺廃庵となっており、寺名のみが地名に残っているのは、清金庵・高源庵・源興寺・曳禅寺・東光寺・宝林寺・西轡寺・善光寺・吉光寺・権現堂である。
 人名についている寺名については東光寺・宝蓮寺・正覚寺・良泉庵があるが、東光寺・法蓮寺(宝蓮寺)は廃寺であった。正覚寺・良泉庵については寺の抱人かとも考えられる。
 前述の土井等の下松の形成時代に、一方、泉所寺・正福寺・大蓮寺の古い大寺院が、切戸川下流の地に建立されていた。(下松地方史研究第二輯参照)。詳しくは後日述べたいと思うが、泉所寺・正福寺・大蓮寺は、中市通りの本道ができる前に建立されていたもので、本道路とは全く関係なく、切戸川の河口を中心にして建てられていた。所謂、青柳浦は中市通りができる前にできていたのである。また、中市通りは、古い青柳浦町を度外視してつくられた新市街地の感がする。
 なお、泉所寺・正福寺は、地方の豪族によって建立され、大蓮寺は浄土宗遊行派に属するので、一般庶民によって建立されたものと思われる。
 次に、『慶長検地帳』より十六年後にできた『寛永三年都濃郡豊井村打渡坪付』(寛永検地帳という)を調べてみよう。『寛永検地帳』には地名が二六〇余載っており、『慶長検地帳』より一一〇余多い。これは土地が次第に開墾され地名がふえたためと思われる。
 『寛永検地帳』の地名を『慶長検地帳』と同様に群毎に分けると
1 河原 といかわら 中河原 下河原
2 かう田堤 現堤 小堤 外堤 堤田 中堤 万五堤 丸毛堤 丸堤 めうた堤 大丸堤 堤の内
3 塩入
4 垣内 三蔵垣内 塩垣内 外垣地 たやかいち たうねんかいち 林かいち 原かいち ほうさかいち 南かいち
5 おみ迫 おそか迫 おく迫 かけか迫 北迫 さかの迫 なきりの迫 なおか迫 なけりの迫 八ツか迫 又二郎迫 おきか迫 塩や迫 寺迫
6 大江田 大ノ田 おき田 大口田 かわら田 空田 神楽田 川田 かくし田 熊の田 神田 小やう田 さこ田 三反田 さふり田 たう田 つく田 寺田 所田 中の田 ふちや田 ふく田 万五郎田 一町田 八反田
『慶長検地帳』の地名と比べると河原、塩入が少なくなり、迫、田が多くなっているのは開発のためと思われる。
 当時の戸数は、次の通りである。
寛永検地の屋敷数調
地名戸数地名戸数
11磯ふち1
中村10うちかね1
井の上8江き1
土井(居)7大谷1
おくか迫7おどろ1
相かれ61
くま5尾つ1
能行5神田1
大蔵4かめさき1
片山4国かけ1
大畠3下松1
かわら3さく田1
下山田3さこ田1
寺迫3江きの前1
いの井2さやの木1
江口2三蔵かいち1
岡の前2さんし給1
下河原2つく田1
東光寺2ついち田1
豊井21
所田2ほうさかいち1
中河原2ほう風1
なつめ2ふちや田1
ふろかえき2よこ道1
山子2霊昌寺1
2131
松口2下松浦106
 寛永検地は慶長検地よりわずかに九年を経て寛永三年(一六二六)に行われた検地である。
 慶長・寛永検地の差がわずかであるが、寛永検地は実測は行わず平均額を基準として行ったものである。

 次に『慶長検地帳』と『寛永検地帳』を比べ『寛永検地帳』に新たに出た地名は
相かれ 朝小畠 相川 合の坪 あな田 あわたろう いけの本 家の後 今の本 一町田 いの井 いの井平 いのいえき 市藤 井成口 打手口 うめさき 氏兼 漆原 江山 大江田 岡ノ尾 尾崎 大谷 おきか迫 大丸堤 大とし おき田 大口田 おいの前 おとろ おさき かまとき からつほ かうかけ 垣の内 かち免 開台寺 かめさき かうなん 川田 かけか迫 かくし田 北迫 きり木 きたとの きつねの尾 吉光寺 切口 京市 北山 下松ノ後 下松 熊の岡 くまの前 国久 くすり く内 国かけ 熊の田 香源庵 小なる竹 小やう田 させう 沢の本 里の坪 三めん 里の尾 三反田 さす さふり田 さかの迫 さんし給 さかやのいち 塩か後 正けた 塩やのまへ 塩やの後 塩や迫 しやうふかえき 清水の本 しやうけた 小路口 里の坪 下河原 しとろへ 正立 塩垣内 しやうけた すそへ 末光 空田 たなせ ちやうの本 ちやく 地神本 坪の内 つねより 堤の内 寺迫 寺田 天王か本 出方 豊井 藤九郎 東光寺 友影 とい 所田 時末 東光寺平 なきりの迫 中河原 なる竹 なつめ なきりかすへ からうつぼ 櫟木 能行 納所畠 のち 原 浜ノ後 原ノ はんしょう 八ツ 林かいち 原ノ東 橋ノ本 八条 八条口 八反田 配地 原ノ上 東原 桶の口 ふちや田 ふすな ふく田 ふろかえき ふくてん ほうさかいち 宝泉庵 ほりこし ほう風 万五郎田 万五堤 松立 松ノ本 丸堤 松ノ坪 松ノ前 まつ 宮ふさ 見立 南垣内 水がえき 山のおく 柳の本 山はな 安松 山子 八の坪 八か迫 よりゑ 米仲 四の坪 吉井 わミためん
『慶長検地帳』よりなくなった地名
いおうかへり 石丸堤 磯地塩入 池か迫 井の尻 磯ふち塩入 栄太郎 大ノ田 大くら おかた 大くな 押もと 大みとり 大なるたけ がうろく きりの木の本 孤かせ 国久塩入 熊かわ田 こいかわら 小河口 近藤垣内 三町田 酒や垣内 さか さけき 城の本 せうふがえき せ崎 そうか迫 たう免 たるて 田久塩入 竹山 地神免 つか田 常藤 とうねん垣内 中や 長畠 長承 なか滝 西か迫 花垣内 八反か坪 はつ田 はりもと はつこう 林殿 畠田 ひの上 ふちのもと ふしや田 仏借田 松かつら ミなくち 宗塚 山ノ田 柳 行山 湯めん よしき 横枕 よしのり 横畠 霊尚寺
両検地帳はその間わずかであるが、地名の異同がこのようにはげしいのは、当時確実な地名としてあったものは少なく、大部分はその場で思いついたままにつけられたものであると考えられる。
 異同の地名の中で、八反か坪が八反田、風呂ノ本が風呂ノ迫、又二郎垣内が又二郎迫、権現堂がごんげん、「さか」が「さかの迫」のちがいは興味ある事項である。
 『慶長検地帳』と『寛永検地帳』の戸数を比べてみると、河原が16戸数あったのが土井7、かわら3、下河原2になっているが、これは田地より畠地に住居を移したのではないかと思われる。昔は米作地を大切にし、できるだけ住居地にせず、米の収穫をはかったのである。
 また、新しい開作地を求めて移った人々もあって、「正立寺過去帳」には享保年間以降、開作に移住したもの、恋浜より宮洲に、寺迫より高橋に、寺迫より八軒屋に移る等移住したものも多かった。
 下松東市一三九戸が下松浦一〇六戸になって三三戸減じているのは、慶長十六年(一六一一)に毛利本藩が船倉を下松より三田尻に移したため、舸子たちの移住により減じたのではあるまいか。当時、舸子は町方に住み、舸子のほとんどは西教寺の門徒であった。『慶長検地帳』では東市に御舟頭藤兵衛が住んでいるが、舸子も同じ町内に住んでいたと思われる。また、天和三年(一六八三)に徳山藩も船倉を下松より遠石に移している。毛利本藩並びに徳山藩の船倉が、いずれも下松にあった時代の下松は、重要な軍港であった。
 天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐のための伊予渡海に、毛利輝元は下松船出帆準備を下知している。また、慶長元年(一五九六)輝元は「沿海の令十二条」を発布している。大江氏四代実録(天正十三年四月)によれば
「今度我軍羽柴氏ノ兵ト共ニ、四国ニ発向ノ期日五月二日ニ定メラル。依テ防州下松船遅滞ナク出帆ノ事下知ヲナスヘキ旨、児王豊前守ニ仰ス」
沿海の令十二条には
「其一、沿海諸浦ノ地子銭悉ク舟師ノ兵賦ニ充ヨ
 其二に鷁舟四隻及舴艋其他、広島降松赤間関等に在る所官船の用に供する水手千人を定むべし
 其三ニ曰、縁海ノ民戸浦ノ前後ニ在ル者、農ト漁ト其居ヲ易ヘシ塩戸亦然リ……」
とあって、下松は重要な軍港であり、また軍港としての整備もはかられていたようである。
 次に『寛文検地帳』の寺院について考えると
寺名寺識寺領場所
周慶寺二反四畝 下松
妙法寺八畝田二反一畝二十歩 畠五畝十歩とよい
利済庵四畝田一反五畝十歩 畠四畝二十歩神田
地蔵堂三畝 相かれ
普門寺三畝二十歩 東市

 『慶長検地帳』の大蓮寺は、西福寺跡(下松道場)に移り、周慶寺と寺名を変えたのである(下松地方史研究第二輯参照)
 霊昌寺は、吉敷郡宮野潮音寺の毛利輝元の書状に
 「為寺領防州都濃郡豊井郷霊昌寺令寄附候」
とあって霊昌寺は廃寺にされたのである。霊昌寺は大内氏と関係深く『正任記』文明十年(一四七八)十月三日の条に
 「自防州下松霊松寺、巻数并餅抹茶菓子等進上之、被成御書了」
とある。また『蔗軒日録』によると文明十八年(一四八六)六月二十五日の条に
 「下松ノ鷲頭山霊昌寺寓」
とあるように、霊昌寺は山号を鷲頭山と号していた。この山号にみられるように、同寺は、大内氏と深い関係があったことがわかる。大内氏滅亡後は廃寺となり、寺識と寺領計三反三畝は『寛永検地帳』では地名(霊昌寺)となり、屋敷五畝、畠四筆二反八畝十歩に分けられ、土民によって所有された。
 西福寺は、『慶長検地帳』には寺領田七反十歩、畠五反十歩があったが、『寛永検地帳』には西福寺の寺領はなく、地名としても残っていない。
 また、『慶長検地帳』には地名としてあった寺名のうち、清金庵・権現堂・源興寺・曳禅寺・宝林寺・西轡寺は、『寛永検地帳』ではなくなっている。
 『寛永検地帳』に寺名が地名としてあるのは、香源庵・宝泉庵・開善寺・吉光寺・善光寺・東光寺・霊昌寺である。
 永正十年(一五一三)鋳造の鐘銘がある泉所寺について、『慶長・寛永検地帳』に何も記載がないのは何故であろうか。当時は、まだ中島町は造成されておらず、単なる砂州にすぎないため、豊井村に含まれていなかったためであろう。後日の研究に譲りたい。
 当時の行政区分を記すと
村内組分け庄屋畔頭村内町方町年寄目代
都濃東豊井寺迫 鯉ヶ浜下松町
西豊井能行 土井 柳(中川原町 中市 東市 新町)

 次に『寛永検地帳』より約九〇年後にできた『地下上申』には、小さな地名はのっていないが、同書からはじめて豊井村が東豊井村・西豊井村に分けられたことは、前述のとおりである。このとき、両村は左のように分けられた。
 東豊井村
   寺迫 岡ノ尾 繁昌 原 中豊井 鯉ケ浜 中川原町片山 下り口
 西豊井村
   中市 東市 新町 柳村 土井村 能行村 東光寺 法蓮寺 殿ケ浴せうぢ 田中 熊 奥迫
特に同書に小字で書いてあるのは小字(こあざな)の意であろう。同書には、これらの地名についての由来が記されている。二、三あげると
 右小村之内寺迫と申候義ハ、往古彼村之内ニ善正寺と申古跡御座候ニ付、寺迫村と名付申候由申伝ニ御座候事
とある。この善正寺は、霊昌寺の別名ではあるまいか。
 善正寺については、現在何も知られていない。また「森崎」の地は、検地帳にも『地下上申』にも出ていない地名であるが、現在は一般に通用されている。同所はもともと岩崎の地である。岩崎即ち岩の崎であったのは、傍を切戸川が流れ、それに突き出ていたためと思われる。しかし切戸川の流路が変わり、そのため岩崎に森がしげり、森崎となったのであろう。
 当時の童謡に
 「八口、八丈、殿ケ浴、森崎狐がコンと鳴きゃ熊能行」
とあるように、森崎は昼間も恐しいほど樹木がしげり、狐が出るとおそれられていた。
 切戸川は昔、森崎に沿って流れていた河が、洪水によって今の切戸川の方に流れが変わり、今の切戸川となったといわれているが、切戸川の川名は『地下上申』にも出ていない。『地下上申』にはただ本川と書かれている。明治三十七年刊行の『山口県風土誌』には下松川と書かれている。当時はその地名によって久保川・下松川等とよんでいたようである。
 明治六年の『山口県大小区村名明細書』には、川の名でなく切戸の地名がのっている。荒神川が下流の荒神の地名をとり、川全体を表わしているように、切戸が川全体を表わすようになったのではあるまいか、御園生先生の『防長旧族の館址古城址研究』にも「切戸川と云うは河内川の下流の名であって云々」と記されている。
 切戸川の切は開墾・新開の意であり、戸は沼や場所の意であるから、切戸は沼地を新開した意である。切戸は、中島町の上にあって湿地帯であった。また、「くたまつ」は湿地帯の港であるように、切戸川は湿地帯を新開した川と考えると興味がある。
 『地下上申』にある寺院について述べると
寺院宗派所在地
妙法寺禅宗中豊井
慶雲寺禅宗鯉ヶ浜
正立寺真宗中豊井
弁財天堂泉所寺抱中豊井
泉所寺真言宗柳村
周慶寺浄土宗中市
普門寺浄土宗正路口
浄西寺浄土宗東市
西教寺真宗新町
観音寺泉所寺抱東光寺
周慶寺抱新町
庵毘沙門周慶寺抱殿ヶ浴

 右のうち寺は現存しているが、堂庵は今はほとんど廃庵になっている状態である。
 『地下上申』より約百五十年して、明治八年に『山口県大小区村名明細書』が出た。これによって今まで不正確であった土地区分が明らかにされ、町村の下に大字・字・小字と区分された。これには、次のように記されている。
  東豊井村
   恋ケ浜
    魚カ辺
      神明が迫 大鳴滝 小鳴滝 浅尻 赤松川 地獄谷 鞍馬が迫 赤岩
    法越
      寺畠 合六
    岡原
    四ツ迫
    奥山
    岡
      林河内 ヱゲ 万福寺
   宮ノ洲
    洲端
    宮浦
    宮洲山
   中豊井
    半上
    大谷
      防か谷 馬門 大迫 ヌタ 木綿が迫 於 三が浴
   防が谷
      狸岩 小迫 大平 下平 猪ノ迫 船コウラ 朝が迫 コイガスネ シヤクシ川 長浴
   寺迫
    岡ノ尾
      浴ノ山
    作田ノ浴
      善正寺山 池ノ迫 菖蒲カ浴 狐郷 夕免 首峠 着 大久保 権現 奥浴八ツ迫
   下松町
    新町
      二軒屋 八軒屋 新崎 松か崎 鍛冶屋小路
  西豊井村
   能行
    大久保
      中尾 西大久保 八が迫
    片山
    奥迫
    尾鼻
      常藤
   下松町
    新町
      室町
    浦町
      中村 高洲 銭屋開作 高洲屋開作
    東町
      荒神小路
    本町
      大小路
    中市
    樋ノ上
    中島町
      俵屋開作
    土井
    熊
     天ノ久保
     クレが迫
    殿が浴
     惣が迫
       天王
     岩崎
    柳
     東柳
       原中
     西柳
       横道
    法蓮寺
     漆原
     御屋敷山
    東光寺
     井ノ浴
     尾尻山
こうして地名が細分化され、組織化されたが、実際的には煩雑になった。
 明治二十年九月の『字限地引絵図』(現在も市役所で使われている)には、地名が一連に記されている。(東豊井村地主総代兼田幾次郎・兼田友吉及び西豊井村地主総代伊賀崎茂作・武居梅次郎より提出)
 東豊井村
  魚ケ辺   浅尻    地極谷   鞍間迫   見越    一ノ坪   寺畠
  四ツ迫   大畠    上恋ケ浜  林河内   光源名   百田    岡原
  浜田    大鳴滝   赤松川   一ノ迫   鎌番    地神本   長添
  合六    乗越    奥山    東北    恵計    金山    原
  相枯    浜河内   宮ノ洲   宮浦    舟入    磯地    花垣
  万福寺   蔵免    中村    半上    堤田    西浜    小島開作
  新町    小松原   丸堤    塩入    海善寺   安免    奥畑
  権現    松ケ坪   清水本   夕免    菖蒲浴   渕ケ本   浴
  岡の下   大谷口   天王本   大年    黒町    外堤    長浜
  新崎    二軒屋   神田堤   古川    下司橋   内堤    寺迫
  谷津    大久保   着     鞍掛    狐郷    平原    陰山
  岡尾    大田    大谷
 西豊井村
  畑岡    熊     岩崎    所田    松ノ木   原中    東柳
  本町    浦町    喜重屋   悪宝屋   俵屋開作  薬     寺田
  時末    亥ノ猪   天王    尾尻山   大久保   暮迫    小井手
  大みとろ  小路口   夏目    樋ノ上   東町    高洲    重本屋
  三谷屋   中島町   高なへ   吉敷    末光    法蓮寺   東光寺
  出迫    漆原    能行    殿ケ浴   亀崎    丸堤    土井
  合六    中市    室町    開作    山崎屋   村重屋   切戸
  安松    河原    下山田   松口    岡下    哥ケ浴
『慶長・寛永検地帳』時代よりなくなった地名は豊井村全体で
  相川    会の坪   阿弥陀免  あな畠   井上    幾ふち   井成口
  後迫    大庭山   おどろ   かのふ松  かくし田  片山    川地
  神楽田   吉光寺   きたとの  北原    きれ田   国久    熊野田
  香源庵   神田    近藤垣内  小堤    高源庵   三蔵垣内  さやの本
  さふり田  さこ田   沢の本   里の坪   下河原   塩垣内   地神ノ本
  塩や    すき崎   外垣内   空田    田中    堤かいち  とりいの本
  中の田   中堤    納所畠   橋の本   八条    八反田   原かいち
  樋の口   東原    風呂ノ本  ふちや田  ふすな   宝泉庵   ほうさかいち
  ほりこし  万五堤   丸毛堤   南垣内   南かいち  ミのふち  山崎
  山のおく  米仲    よりゑ
これらのなくなった地名には、郷土史研究に有益な史料がふくまれている地名があると思う。
 明治二十二年の町村制実施にあたり、東西豊井村両村が合併し豊井村となった。この合併は、両村民によって歓迎されたことについては前述の通りであるが、いろいろ困難なことが多く村役場の建築については、結局、両村の境にあたる鍛冶屋小路に建てられ、その後栄町移転まで続いた。
 今次の大戦で国家総動員法が発布され、行政の簡素化が叫ばれ、部落等の合併が行われた。(下松地方史研究第十五輯参照)
 戦後、都市計画が促進されるようになり、下松市でも昭和四十一年五月に下松駅裏区画整理が行われるに及び
 原中 夏目 松の本
の古い地名がなくなり、新しく
 北斗町 古川町一丁目 古川町二丁目 古川町三丁目 古川町四丁目 中市 樋の上 東柳一丁目 東柳二丁目 大手町一丁目 大手町二丁目 栄町一丁目 栄町二丁目 栄町三丁目
の町名ができた。
 また、昭和四十二年旗岡団地の造成に伴い古い地名
 大久保 着 権現
がなくなり、新しく
 旗岡一丁目 旗岡二丁目 旗岡三丁目 旗岡四丁目 旗岡五丁目
の地名ができた。
 昭和五十三年二月都市計画区画整理第三工区の実施により、古い地名
 内堤 古川 下司橋 塩入 黒町
がなくなり、新しく
 青柳一丁目 青柳二丁目 琴平町一丁目 琴平町二丁目
ができた。特に塩入 内堤 古川の地名は、昔の海水の状況や開発等を知る上で、大事な地名である。
 また、区画整理された地名については、下松市旗岡何丁目第何番地となり、大字東豊井の地名は消えてしまうのである。古い豊井の地名が失われてゆくことは、誠にさびしい次第である。
 こうして都市計画が行われるたびに、下松の古代を語る古い地名は失われてゆく。古代の下松の地勢を語り歴史を語る地名が失われてゆくことは、誠に残念にたえない。
 次に『慶長・寛永検地帳』に載る地名について解説してみたい。
あい     湧水 鮎 旧河床の低地
あいか    湿地 鮎の住む川の意
あいかれ   名主が直接つくっていた田
あか     屋根 崖 田畑 赤色 閼伽は仏に供える水として濁りのない美しい水 赤川の赤は閼伽から転じたもの
いお     魚の略称
いの     水路ある野原 井戸のある野 砂地
いち     市 市場のこと 道路を媒体として人が集まり街上交易が行われた
いで     集落が発展するにつれてもとの集落から出て分れた新しい集落
いとふち   イトは磯 フチは渕
え      入江の江 海や湖の陸地に入りこんだ所
えき     山奥に入りこんだ谷添の狭長な土地 方言「えご」に通ずる
おおくら   くらは倉庫や土蔵の意味でなく谷ガケの意
おおくぼ   クボはクボミ即ち周囲の土地よりも低くなった地形の意
おおみどろ  みどろは水泥
おどろ    やぶ 草木などの蓬々と生い乱れて繁っている所 垣
おぐら    山村の集落
おさき    尾崎 山の背すじの先端
かあい    合流点の地名
かいと    中世の開墾地につくられた集落 多く山間にあるから挾所(カイト)の意
かいさく   干拓地 多くは毛利氏時代の開拓にて大内氏時代に遡るものはまれなり
かきのうち  谷間を意味する 垣内 土豪の垣の内 小部落
かたやま   カタは片側で山頂近くの平坦地
かた     入江 湖沼 海岸の遠浅で潮がくればかくれ去れば表れる土地 地名の中には南方的語順のものがある 片山片岡は山方岡方の意 親村から分かれ出た子村
かと     川畔の洗場
かのう    追加開墾の意 荘園時代には本領・本郷・本納・本所に対して、別所・別府・別納などがある 荘園中の空閑地を特別の官符をうけて追加開墾した土地 新田村と同義であった 多数の人が口を合せ、力を合す
かんだ    田の神を祀る田(水口などに設ける) 神社の費用を弁ずるために設けられた田
きり     焼畑 開墾 新開の意
きれと    切戸 水流などで切れ口になっている地形
くま     屈折して入りこんだ所 奥まった所
くら     岩 崖 谷 蔵
くろ     黒 畔 色の黒いこと 古い意 田のへり
ござ     御座 御座所すなわち神や貴人などの居所から起った地名
ごんげん   権現をまつったことによる地名
さお     栄えている場所の意
さか     険しい 浜辺の土地 峠
さこ     迫 ほそく迫った九谷 湿地
さと     里 多くの人が集まり住む集落 大化年間は六町四方 のち御の意に用う
さや     小川 溝のこと 狭谷(サヤ)の意 山にはさまれて谷がきわめてせまい
さわ     沢 谷川 沼沢地 湿地
さす     焼畑の意
しら     山の斜面
しょうぶ   菖蒲の茂生地 細流
しみず    つめたい水
すき     朝鮮語で村のこと
そ      谷 池の訛り 瀬 滝
たいさい   太歳 陰陽家にて祭る八将神の一木星の名
たな     山腹の棚形の平地
たる     樽 垂 滝
たかしがき  軍防上の営築を施したもの
ぢしん    国っ神 地祇
ちゃうすやま その形が茶臼ににる
つえ     雨水の浸潤によって山崩れのした地
つか     塚 小丘や円丘 畑の単位面積(五畝)
つくだ    名主がつくらせていた田
つぼ     昔時 田 畠の所在を計るに用いた名称 一町平方 村内を更に小区画した所の名称
つつみ    堤 溜池
で      本村からわかれた新村 新しく分かれて独立した村
てらだ    寺田 寺で領有している田
てらうち   寺内 寺の管理内の土地
てらもと   寺下 寺元 寺院のふもと 門前
てんのう   天王 天王信仰(牛頭天王 素盞嗚尊)にちなむ
と      アイヌ語で沼の義 沼状地帯 湖 場所 狭い所
とりいもと  鳥居元 鳥居の辺の地名
どい     土井 鎌倉時代の豪族や武士たちの屋敷のまわりに土畳や堀などを築いて防禦体制を整えたことからおこる周囲をかこんだ土手
とのこうち  為政者の居所
とりい    鳥居 戸(狭間)入(イリ)の訛 そのような地形にある例が多い
な      土地 国を意味する古語
なか     親村から子村が四方へ分かれ出た場合にその中央にある親村を中村という 中間にある村 正しい意
なが     長いの意 竜神 水神の意
なぎり    岬 焼畑 がけ 海岸に近く海波の侵しやすく崩れた所
なる     ゆるやかな傾斜地 鳴る
なつめ    ナツメの生えている土地
なわて    ナワノスヂ 田間の路 あぜみち
にい     新(ニイ)の語源
はた     畑 機 旗 水田に対して乾田
はつた    ハルタ(治田)ハルとは開墾すること 開墾された田
はり     治 墾 榛 開墾された土地 はりの木の生えている土地
はる     春 治 墾
はるた    一毛作田で年中水のたまっている泥田
ひ      水を通す木管
ひど     肥土 山麓の低湿地
ひら     平 坂 平らかな所
ふろ     石フロ 浅瀬の水温む所 神を祀る場
ふる     新・今に対してモトの意
ほう     保 大化改新のとき五戸の家を単位とした一組織 平安時代の自墾の私田
ほろけづく  法気づく(仏法めく 仏臭くなる)
ま      港 船着場 小島 半島 場所 湖沼
まつ     松 神を来迎するあるいは期待する 幸が天から降るのを待つ標木になるから、古典にも松を神聖視したり祝う木としたりすることが多い 神の来るのを待ち幸福の来るのをまつ
みの     丘陵地帯
みや     平地 神社 貴人または神の鎮座する建物 場所 原野
みた     御田 神社所属の田の義
みなくち   水口 水取口のこと 田へ水を塞き入る 口
めん     免 江戸時代に田畑から取り立てる租税をある割合により減免する、その租税の減免を受ける田を免田又は免という
もと     元 本 親村から子村が分かれたときそのまわりの子村に対して元村
やつ     谷 低湿地のこと
ゆうめん   神社の油代になる田
よこまくら  横枕 田畑などの地割りで残った横に長い地形
よせ     集まること
もり     森 神社 山
(昭五四・一一、第一六輯)


下松市大字[東豊井 西豊井]小字綜合図